愛するということ 第一章 3


もはや次郎の精神状態はやりきれない所まで全身に行き届いた。帰宅後は酷く酒を浴び、
弱い立場の靖子へ憂さ晴らしに暴力を振るう。それが毎晩続いた。
それからあの事件――。
その日の夜、靖子は出刃包丁をしっかり握り締めていた。
何もかもが悪夢。
兄弟は何時ものように、父の母へ対する暴力を反対端の方から見ていた。
靖子を殴り疲れた次郎がいつものように用を足すため外へと向った、その時。
ガタ
――

音が確かに響いた。
次郎は何か危険な音をあたかも察知した様に、さりげなく振り返った。
正樹ははっきりと覚えている。この時、靖子は包丁をへその高さに構えながら、視角の
右から左へ足早に抜けていった。母の目つきは瞬時で震撼するほどに、それはとても恐ろ
しい形相であった。
「ひぃぃ!」
奇声を発したのは靖子の方。次郎はもはや一瞬の出来事で、低いうめき声を轟かせなが
ら仰向けに倒れている。
止めを一刻も早く成し遂げんばかりに、靖子は次郎の胸付近へまたがり、奇声を発しな
がら彼の胸目掛けて何度も何度も包丁を振りかざして突き刺していた。
殺傷を止めてから一分ぐらい経ったあたりだろうか?
赤ペンキを一気に弾いた様に返り血で服を染まらせた母が、急にニヤリと顔を崩した。
彼女は兄弟四人固まったまま立つ方向へかすれ声を発する。
「こっちへおいで
……

口調だけが、靖子に残された唯一の優しさ。
兄弟は、ただならぬ空気と威圧感に動く事すら出来ない。
「何もしないから、こっちにきなさい」
母は包丁から両手を離して言った。
それから何度も手招きしてみせる。兄弟は思わず目を反らした。刺さった血だらけの包
丁が、父の腹上に立っているのが見えた。
「み、みんな! ここから逃げろ
――
!」
長男の豊は先頭でベランダ窓から外へ飛び出した。驚くまもなく釣られるようにして残
る三人も外へ逃げ出す。
そこからは、とにかく走った。どれだけ走ったかは定かではないが、暗い夜道を、海へ
と繋がる下り坂を、皆、はだしで勢い良く走った。道中、四歳になる四男の亮が躓き転倒
する局面などもあったが、長男の豊が泣き叫ぶ彼をおんぶし、再び力の限り行ける所まで
走った。
やがては走る三人共に疲れが見え始める。
「休憩しよう」
豊はガードレールを支えるポールへ背中をもたせた。弟二人もそれを真似た。四男は、
豊の側に座り、転倒した際に出来た傷へ一生懸命息を吹きかけている。
息が落ち着くまでの間、しばらく沈黙が続いた。正樹は、暗い雰囲気を紛らわすように、
顔を上げて夜空を眺めてみた。黒に近い紺色の夜空に、無数の星が散らばるようにして見
えた。とても綺麗。
まるで圧迫するように近くに感じられる星のカーテンの中に、一際輝くオリオン座が見
える。正樹はその軸となりうる三つの星を集中して見ていた。
眺めている内にふと、正樹の瞳から涙が溢れ出してきた。起きた状況を何一つ理解でき
ないまま、整理しようとすればするほどに、涙が溢れ出してきた。
もはや感情がやりきれなくなり、正樹は空を眺めるのをやめて泣き崩れた。その気持ち
は連鎖的に兄弟にも届き、終いには全員で激しく寂しく泣いた。
号泣によってまぶたを膨らませたまま、四人は飛行場跡地(米軍の旧軍用地。キャンプ
フォークナーと呼ばれた飛行場跡地。渚の位置に面した土地である。)へ辿り着いた。もう
帰る家は無い。時間は既に日付を越えようとしている。逃走から二時間が経過していた。
皆、半袖のシャツと半ズボンのまま外に飛び出した為、シーズンオフ手前である秋の夜
風が五感の落ち着きと共に段々と寒く感じ始めていた。しかも裸足である。
渚に伸びる雑草群の一角に、ゴミが多量に捨てられていた。豊はその中に何か暖の取れ
るものは無いかと考え、あさってみた。ほとんどは増改築工事で出たであろう産業廃棄物
であったため、腐敗臭などは立ち込めていなかった。
黒いゴミ袋から汚い毛布を一枚見つけた。四人はまだ体が小さく、かつ、常日頃から抱
き合うようにしながらくっつき寝るという事が習慣的にあった為、とりあえずはこれだけ

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