愛するということ 第二章 18





徹の両親である慶三と初枝は、終戦直後の東京で出会っていた。
バラック建ての池袋西口付近から二人の愛は始まった。それから三年が経過した頃、二
人は板橋の駅近くにある貸家に生活の拠点を移していた。引っ越してまもなく初枝はお腹
の中に小さな命を授かった。妊娠三ヶ月。当初は互いに金銭的余裕がない事と、果てしな
き夢を持っていた為か、子供を出産する事に関して悲観的であったが、最終的にはこの命
に名前がついた。『山田徹』の誕生である。
徹が生まれてから八年。この町にある桜の木もだいぶ成長した。慶三は今朝も桜がさら
りと美しく散り行き、そして周囲が桃色に彩られる瞬間の世界を一人歩いた。朝露に濡れ
たベンチに腰を下ろす。じんわりと衣類に無数の小さな水滴が染み込んだ。彼はそれにか
まう事無く再びそこから桜の木をぼんやりと眺めた。
慶三は空を見上げたままの状態で目を閉じてみた。何処からともなく吹き抜けてきた風
の匂いにかすかな何かを感じた。忘れられた記憶の奥深くから覚醒された様に目を大きく
見開く。慶三は風上の方向へゆっくりと顔を移した。そこには、この現実にある空間の途
中を断裂された様な線が空中に引かれた様にして浮び、そこから地面へスクリーンの様に
光が差し込んでは、鮮明に何かを映像化していた。彼はゆっくりと立ち上がった。利き側
となる右腕を光の方向へと水平に伸ばし指先を震わせる。
「志津絵
……

目の前に映った光景が思わずそう言わせた。慶三はまるで古い八ミリビデオの様な物で
撮影したようなモノクロ調の映像にゆっくりと近づいてみる。どうやらこの中には二つの
世界が被さって映し出されている様に感じ取れた。震えた指先でそっと触れてみる。瞬間、
脳を直接的に刺激した。慶三の魂が自身の体を離れた。二つに分身する。一つの魂が手前
に映し出された世界へと吸い込まれた後、そのスクリーンの様な物は分身と共に消去され、
奥にあるもう一方の世界だけが彼の目の前に残された。慶三は水平に伸ばした腕を一旦下
ろした。思考を巡らせてみる。これは一体どういう事なのか? 考えた。しかし、答えは
見つからない。慶三は自身の重さが何故かだいぶ軽い事にようやく気付いた。どうやら自
分は魂と化したらしい。そして更に半分は何も知らずどこかへと消えてしまったというこ
と。彼は、自身の人生と運命について思い出した。これまで自分は、流れに逆らう事無く
自然にここまで辿り着いた。全ての運命を自然に受け入れてきた。ならばこの奇妙な出来
事も、自分の人生に対して何か理由があり、答えを求めて行動してみるべきなのかもしれ
ない
慶三は、決意した。再び水平へと伸ばした腕の先が、スクリーンらしき物の中へと入り
込んだ。瞬時にプラズマのような激しい光と共に、全身の内部からストロボの様なフラッ
シュがたかれた。そして彼自身が目をくらませたと実感した瞬間から、世界は全くの別物
となっていた。宿命とも言うべき物に運ばれたこの魂は、今、慶三の知らないもう一つの
世界に居る。彼は昭和の三十二年となる沖縄に辿り着いていた。相変わらずこのやや透き
通った体は、とても不安定で、歩くには何処か物足りなさを感じる。目の前に商店街が見
えた。しかし、長らく故郷に帰る事無く、その為、土地勘を失ったせいか、この場所を完
全に特定できない。慶三はとりあえずアーケード街を歩く事にした。不思議な事に、全て
の人や物が彼に気付く事無く、そのまますり抜けていった。やはり今の自分は霊体なのだ
と言う事を、彼はここで実感した。商店街を入ってすぐの所に時計屋がある。ガラス越し
から日めくりのカレンダーが見えた。どうやら今日は自分がベンチに腰掛け桜を眺めたあ
の朝と同じ四月の十三日らしい。さらに歩いてしばらくした所に小さな花屋を見つけた。
同年代の男性客が女性店員と何やら会話を交わし始めている。慶三は立ち止まり、吸い寄
せられる様に二人の会話へ耳を傾けてみた。
「今日も何処かへお寄りですか?」
「ええ、まあそんな所です。毎月十三日には必ずと彼女に約束しているもので」
「あら? 慶三さん、彼女いらっしゃったんですか
――
?」
この瞬間、外に立つ慶三の目が完全と見開いた。
慶三? やはり彼は自分だったのか。しかし、一体どういう事なんだ? まるで自分は
もう一つの世界へ来ている様に、話がまるで違う。自分はあの日からこの島には一度も戻
っては居ない。しかもこの日は、あの公園で桜を眺めていたはずだ」
慶三は少し目眩を伴った状態で考えた。あの桜の日に自分は死ぬと言う事を自然と悟っ
た。そうか、そういう事か。会話は続く。

――
いえいえ、亡くなった女房の事ですよ」
「ああ、そうだったんですか。まさか、大東亜で? あ、ごめんなさい!」
女性店員は、思わず口を塞いだ。
「いえいえ、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
微笑を浮かべて彼女を気遣った彼の瞳は徐々に涙を浮かべ始めた。

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