愛するということ 第二章 16


から伸びる影が徐々に色濃くなる。そして完全に正常な状態となった。しかし、全身が非
常に軽く浮き出すような感じに、自然に目を覚ましている美代子は、とても不思議に感じ
られた。倫子と美代子は目の前にある戦前を伺わせる建物の中へあたかも第三者によって
誘導されているかのように、会話無く無意識的に訪問した。
建物の中には生活に必要な物以外に余計なものが一切無く、またこの時には彼女ら以外
の誰一人としてこの場所には存在しなかった。ここは
……
。美代子が空気を吸い込んだ瞬
間、彼女の脳にこれまで体験した事が無い記憶が次々に溢れ出して来た。それから自分の
全身に取り付いた霊の名前を思い出した。
「わたしは、山田志津絵
……

最後の記憶に辿り着いた時、思わずそう口に出していた。
時は沖縄戦のあった昭和二十年。
山田志津絵は当時三十六歳で、今回の事件の発端である茅野市に住む女性。彼女には子
供が三人居た。一人は男の子で残りの二人は女の子。徴兵され満州へ派遣されていた夫は、
満州撤退時から行方が分からなくなっていた。
戦時中、彼女ら一家は真知子達と共に居た。集団自決があった最後の夜、志津絵は未だ
に行方不明となっている夫の事を思った。嗚呼、どうか貴方だけは無事に生き残ってくだ
さい。合掌し目を瞑った彼女の頬を、緩やかに一滴の涙が流れては夜の地上に落ちた。非
常に速い光が一瞬大きく放たれた。そして凄まじい爆音が数秒後には辺り一面へと行き届
いたその時、彼女の魂はこの地へ悲しく宿った。
集団自決のあったあの日の夜はとても星が綺麗だった。その夜から志津絵の魂は、上空
に映し出された星空のずっと彼方へと目を向け待ち続けた。しかし、彼女の想いも空しく
夫がこの地に訪れる事はなかった。そしていつしか彼女は悪霊となっていた
――

倫子は徹のアパートにて目を閉じ彼女の想いを受けていた。そして感じていた。夫はま
だ生きている。そして私が彼女を連れて彼を探し再会させれば良い。倫子と志津絵の魂は
今、圧倒的なアメリカの進撃と破壊から奇跡的に免れた誰ひとりとして存在しない彼女の
家の中に居た。彼女が最後を迎えた戦時中に比べて、どうやら少しばかり床の軋みが酷く
なっている。床から鈍い音を鳴らしながら志津絵は自身の寝床へと向かった。彼女は目的
の物が置いてある化粧タンスの前に着いた。上段の左に小さく設けられた棚に手を当て、
タンスの中身を引き出した。そこには、夫へ『赤紙』と呼ばれる召集令状が届いた次の日
に、家族全員で撮影した記念写真が綺麗に保管されてあった。彼女はそれを丁寧に持ち出
し、眺めた。彼女の記憶が再び鮮明に蘇ると同時に、自身の体が何処と無く変化が見られ
始めている事を意識できた。先ほどまでとは比べ物にならないほどに足元へと全ての重み
が伝わってくる。美代子と志津絵はこの時完全に一体化し、この現実の世界に存在する事
をはっきりと認識させる物体へと変化させた。何処からともなく後方より光が差した。彼
女の目の前を自身の人影が伸びる。彼女は目を写真から足元へと移し、そして右側を見た。
もう一つの影が同一方向へとまっすぐに伸びている。彼女は後ろを振り向いた。上空から
軒を通り越し入り込む光によって影を生み出したその物体は一体誰なのか彼女は一瞬分か
らなかった。
人物が段々とコチラへ近づいてきた。彼女がその物体に対して更に露出を合わせる様に
目を凝らしてみる。すると、影となり隠されていた暗いその者の色が、徐々にはっきりと
見え始めた。やがてはその影に隠された者の色を完全に悟った時、彼女は夫の名前を大き
く叫び、激しく涙を流した。二人は共に歩み寄り、号泣したまま強く抱き締めあった。
「志津絵、心配掛けてすまなかった。これからはずっと側に居るよ」
彼女の夫である慶三が耳元で優しく言った。志津絵は号泣したまま頷いている。
「さあ、帰ろう。これからはゆっくりと第二の人生を送れそうだ」
夫がそう発した時、志津絵は何かをまた一つ悟ったように涙を止め、鼓動が届く彼の胸
元からそっと顔を見上げた。
「はい。あなた
……

結びついた二人から光が出始めた時、何処からとも無く何時の間にか子供達の姿も其処
にはあった。この場に発生した光は、やがてこれほど無いほどに明るくエネルギーを発し、
完全に周囲の影をなくした。建物が揺らぎ始めた。その場に倫子の姿は見えなくなってい
る。家族の絆はとても深い。誰一人として見送る者が居ないこの瞬間に意味する言葉をこ
の地に残すかのように、その家の中心となる柱に五人の名前が神により描かれ、そして光
はその中へと強く吸い込まれるようにして消えていった。

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