原付バイクと風景画 9

 原付バイクと風景画 9

 咲子は目を見開いた。何かこう、覚醒したかのように。しかし、それは覚醒ではなくて、本当の本物の死期が来たと言うあかしのようなものであった。遥はそれを無意識に悟ると、只々、嗚呼ぁ! と泣き叫ぶのであった。母、咲子は死んだ。

 ひっぐ、ひっぐ、ひっぐ……。遥は、亡き母親の横で泣きつづけた。やがては日が暮れる。夜になった。

 ひっぐ、ひっぐ、ひっぐ……。遥は泣きやんでなかった。最愛の母、咲子はもうこの世にはいない。もう戻っては来ないことを悟れば悟るほどに、今ある現実が信じられなかった。受け入れたくはなかった。だけども彼女は、何かわけのわからなくなった蛙のように、蝉のように、コオロギのようでいて、カラスのような、それでいて、子猫のように、人間ではなく、動物としてしゃっくりを繰り返し続けた。泣き続けた。涙は何故だか止まらなかった。やがて、遥は、衰弱した。涙が枯れた瞬間。ふと、空腹なのを思い出したかのように、彼女は冷蔵庫の方へふらりと向かった。つめたい麦茶が入っている。それをラッパ飲みで口からあふれるのも構わず、がばがばと飲み干した。洋服はそれで水に浸かったようにして濡れていた。こんどは、おもむろに昨日の余り物である皿に載ったミートスパゲッティを、ラップをはがしながら冷蔵庫から取り出した。それには昨日使ったフォークがそのまんま一緒だったために、台所からさじを持ち出すことはしなかった。母親のところへ戻る。

「おかあさん、おかあさんのだいすきなスパゲティーですよ。はあい、あぁんして。いっしょにたべましょうねぇ

 遥は笑顔になってそう言った。フォークにスパゲッティをからめて、母、咲子の開いた口元へと運ぶ。「なぜ? 何故食べてくれないの? おかあさん。なぜ……?」遥はまたもや涙があふれてきた。水分を補給したからだ。また一つ泣けるは飲んでいたからだ。浴びるようにがぶ飲みしたからだ。無論、それだけではなかった。

 遥はまた泣いた。しくしくと泣いた。電気も何もついてない暗闇の中で泣いた。死んだおかあさんの横で泣いたのだ。これに何以上の悲しみがあると言うのか? これ以上の悲しみなどなかった。存在しなかった。遥はうなだれた。うっうっうっ……、と。母はこの身だけを残して魂はあの世へと旅立っている。もはや遥は絶望。破壊の先に見えた絶望。むしろ絶望のさきの破壊のようなものでもあった。彼女は精神が破壊したように脳みそがぐちゃぐちゃになった。なにがどうなのかさえ判断が付かない極限の中で、一生懸命に泣いていた。泣いていた。お母さんはもう帰ってこないの? 遥は地団太にしそうになった。もがきたかった。暴れたかった。発狂したかった。やがて朝になった。夜が明けたのだ。明けてしまった。遥はいつのまにか寝ていた。母のそばで、母の胸元に抱きつくようにして寝ていた。ちゅんちゅんちゅん、と、スズメの掛け合いが聞こえてくる。そんな晴れた朝。遥は起きなかった。完全に息絶えたかのように、死んだように寝てしまっていた。きょう、日曜で里美先生との約束がある。だけども、遥は起きなかった。目が覚めることなく寝ていた。ずっとずっとずっと。

 里美は、きょう、駐車場付近で遥を待っていた。しかし、いつものように遥ちゃんは来な。不審に思った里美先生は、自転車を駐輪場に置いてから遥の住む部屋へとチャイムを鳴らしに行った。出てこな。もしや、と思い、ドアノブを回してみる。鍵はかかっていないことに気が付いた。恐る恐るおはようございますと発しながら扉を開いた。するとどうだろうか? 遥ちゃんと咲子さんが居間の方で倒れているのが見えるではないか。これには正直、里美は背筋が凍りつくような衝撃が走った。まさか! 心中――? 里美は靴を急いで脱いでから、部屋の中入った。そして、遥ちゃんのもとへと駆け寄る。

「遥ちゃん――!」

 里美は察した。口元をミートスパゲッティで汚している口の開いた咲子は死んでいると。これにはさすがに遥ちゃんの命も、もしかすれば。そう脳裏をよぎった。遥は微動だにしなかった。もう一回叫ぶ。

「はるかちゃん――!」

 うううん……。とうめきながら、遥が目を覚ました。無事生きていたのね。よかった……。里美は急に安堵のようなものが押し寄せてきたのを実感した。はるかちゃん、大丈夫? 起きれる? 里美は訊いた。遥は、う、うん……。とだけしか答えない。まだろれつが回っていないかの様子。仕方がなかった。

「遥ちゃん、救急車呼びましょうね、だいじょうぶよ」

「せ、せんせい……

「ん、なあに?」

「おかあさん、しんじゃった……

 嗚呼、なんという事でしょう。これでは遥ちゃんにとってとても酷というものではないのか? 里美はそう思った。彼女はたまらず遥をぎゅっと抱きしめた。つよく、やさしく、まるで母親のように。咲子に代わって抱きしめるように。遥ちゃんは泣いた。ぐすぐすと声を我慢したかのように、苦しく、悲しそうにして泣いた。

「はるかちゃん、だいじょうぶよ。先生が付いているからね」

「さとみせんせい……。うぅ……

 救急車が来た。遥と里美は咲子の遺体と同乗して県立宮古病院へと行く。死因は腫瘍破裂による出血性ショック死。咲子が正式に死亡したことが、これで決定した。次の日、咲子の葬儀が行われた。すべては里美先生が手配してくれた。そんな大した葬儀ではなかったが、近所から、同級生の家族らが、学校の先生やらで、常に人だかりの状態であったために遥ちゃんはさびしい思いをしなくて済んだ。今日はそれだけが救い。里美先生は思った。宮古島の人たちはなんて心が温かいのかしら。と。こんな時に使うべきではないが、それが里美にとってほほえましかった。

 火葬が終わって次の日部屋のかたづけが待っていた。荷物はそんなになかったのが幸いしたのか、そんなに手間は食わなかった。遥の荷物はもちろん、里美先生の住まいへと移された。今日から遥は里美先生のところで世話になるのである。昨晩までは、自身の住まいで里美先生とともにいた。遥はまるで抜け殻になったような状態だったが、それを里美がなんとかフォローしたのだった。のちのち遥は、里美先生にやさしくされるたび泣いた。母、咲子を思い出して泣いたのだ。それについて里美は何も言えなかったし、言うべきではなかったものだから、気持ちは本当に同情そのものしかなかった。遥ちゃんが可哀そうで仕方がなかった。遺言状について、時を見てはるかに読ませるつもりでいた里美は、まずは自身が確認を済ませていた。そして遺言にある通り、遥の籍を自分のものにした。遥にはまだそこまで話してはいない。今は分からないことがたくさんあるからだ。これ以上、彼女を混乱させたくはなかった。そして、いつしかコンクールの絵を書くことになる。

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