原付バイクと風景画 最終話特別特大号

 原付バイクと風景画 最終話特別特大号

には来客用のベッドも用意されており、そのためか、お婆ちゃんも起きた時には既にいた。泊まり込んだのだろう。この個室にはユニットのシャワー室もあれば、台所もある。病室にしては贅沢な設備。遥はお婆ちゃんに説明された。下半身はもう動かないと言う事を。リハビリですら不可能だと、そう告げられた。彼女は相当ショックが大きかったが、それと相乗して、沖縄に帰りたいと真剣に思いを膨らませた。おばあちゃん、わたし、宮古島へ帰ってもいいでしょう? お婆ちゃんは、ほほえんだ。あなたの人生ですもの。すきにしなさい。お婆ちゃんはね、金銭面で精一杯、はるかを支援してあげるわ。ありがとう、おばあちゃん。でも、わたしは研究員としての助成金があるから大丈夫。本当に気持ちだけ頂いておきます。ありがとうね、おばあちゃん。ほんとうにありがとう。

 それから話は一気に進んだ。まず、斉藤家から里美先生へ連絡が入った。それから病院とケアの手配。バリヤフリーの住宅建築。住宅は個展もできるように設計してもらった。飛行機の移動は病院からの手配で軍用機を使うとのこと。遥は本当にありがたいと思ったし、斉藤家に対して感謝の気持ちでいっぱい。

 半年後、里美先生が上京してきた。軍用機の付添に必要だったからだ。お婆ちゃんはもう年で長旅が出来なかったものだから、遥の住居となる建物を確認しに行くことすらしなかった。それらは香織たちが担当してくれた。ねえねえ、はるか。私がたまに会いに来るわね だって、凄くいいところだもの。海もきれいね! 凄いびっくりしちゃった。遥の好きって言ってた岬も行ったけれど、あそこもすごくよかったわ。はるかがうらやましい! ごめんなさい。そんなこと言うべきではないわよね。ごめんね、はるか。ううん、いいの。本当にぜったい会いに来てね。楽しみにしてるから。絶対よ。

 軍用機へ搭乗する日が来た。まだ日が明けてない朝一で飛び立つ。斉藤系の家族はみんな集まっていた。里美が別れのあいさつする。さいごに遥が別れの言葉を述べた。本当にありがとうございました。さよならいつか。またみんなと会えることを楽しみにしています。島にはいつでも来てください。ほんとうにありがとうございました。お婆ちゃんとはもう会えないかもしれない。それこそ、本当のところは誰も訪問してくるかどうか、それすら分からなかった。遥はこの日が最後のような気がした。斉藤家のみんなと顔を合わす事。会話を楽しむこと。そしてお互いに涙を分かち合う事。それらすべてが包み込んだ世界で、彼女はなんだか悲しくなってきた。本当にこれでよかったのかな? そう思うほど。私は間違っているのか。正しいのか。混乱した。遥は泣いた。号泣した。大号泣。くやしかった。悲しかった。そして、愛おしかった。そういえば、下半身不随になってから絵を描いていない。もう半年になる。もう絵をかくのはしまいにしようかとも思ったし、どこに出かけることもままならなかった遥にとって、人生の終了のような錯覚に震えたほど。死期は近いと感じた。おそろしかった。怖い怖い夢を何回も何回も見た。朝になると汗だくで目が覚める。嗚呼、今日も生きて居るのだわ。だけれど悲しいものね。私はもう動けないのだから。そう思うとやり切れなくな。精神は混乱を極めた。精神安定剤を処方された。無理もなかった。ねえ、里美先生。わたし、また絵が描けるのよね? そうだわ、宮古島の絵が描けるのよ。それは窮地に一生を得たようなものだ。水を得た魚のようですらあったけれど、だけども、体の自由がきかない遥にとって、それを口にするのはいけないと思った。ましてや斉藤家には世話になりっぱなしだ。今回の事故も関連性はない。すべては自身の責任。それでもお婆ちゃんは沖縄へ帰省するのを止めるどころか、家まで買い与えた。これにいったいどれだけの愛が詰まっていると言うのか。考えるまでもないこと。

 軍用機は輸送用だったものだから小窓がついてなかったけれど、空調は整っていたし、広々として快適。東京からダイレクトに宮古空港へと流れる。時間は耳鳴りがするほどあっという間。宮古島に着いた。後方のスロープから降ろされる。少し冷たい海風が全身を覆った。潮の香りがついている。さあ、はるか。ゆきましょう! あなたの新しいおうちへ。里美先生はそう言うと、力強く車椅子を押す。

 住居に着いた。白いペンキ一色の平屋で、屋根には赤レンガが隙間なく乗っかっていた。綺麗なおうちですね。ほんとうにわたし、此処に住んでいいの? 里美がほほえむ。いいのよ、あなたの家なんだもの。そしてバリヤフリーから中へと入った。

 宮古島の冬はそんなに寒いと言うわけではなくて、パーカーさえあれば暖をとれる程度なのだが、遥は歩くと言う運動が不可能なために、もう少し暖かい恰好をしなければならなかった。精神安定剤はもう飲んでいない。ややグラマーになっていた身体も、元のスリムな顔つきに戻っていた。白い家は斉藤のぶこし先生の画廊近くにある。遥が住んでいた里美先生のアパート近くにしなかったのは、デイケアの看護師が色々と世話をするのに買い物などが便利なのと、やはり画廊を兼ねている住まいなので、そうしたほうが良いだろうと言う事。それらに関して遥は一言も言及しなかった。してはいけないと思っていた。家を用意してくれただけでも十分ありがたかったから。ほんとうならつまみ出されていてもおかしくはなかっただろう。それほどに障がい者というものは迷惑なのだ。そう自身に対してきめつけていた。もう、わたしには人権なんてないのよ。そんなことを、便の世話をしている三交代のデイケアにこぼしたこともあった。精神安定剤を断薬したのは少し早すぎたかしら? 一人考えてみる。涙が出そうになった。

 遥は宮古島に来てからも絵を描くことをしなかった。なんだか生きていることに力をなくしかけていたのだ。でも、それはわたしのわがままだものね。しっかりしなきゃ。もう少しだけ休んだら、絵描こう。描きましょうね。はるか。里美先生が彼女のことばを追うようにして力づけた。そうよ、わたし、絵しか恩返しできないもの。絵を描くことが全てのようなものなのだわ。そう、描かなきゃ。

 今日は里美先生と街中をうろうろした。カメラは持っている。被写体を決めてからおもむろに写真を撮っていた。のちのち現像プリントしたやつで絵をかくつもりだ。それは障害を抱える前からしていた術。彼女にとってなんにも珍しくはなかった。里美先生は興味津々に反応した。彼女もむかしカメラをやったことはあると言うのだが、あの時代は露出計というものが無くて、中々、今の時代みたいに良い写真を撮るのが非常に難しかったと言う。それであきらめたのだと話していた。でも、そうよね。やっぱりスナップ写真撮影とはいかないものね。本格的なものでないと、目視して描いた方がいいに決まっているもの。里美先生はそう付け足した。家路へ着く。

「あ、あの、せんせい」

「ん?」

「剛君のことなのだけど……

 彼はいま、宮古島に住んでいない。それが遥は悲しかった。彼女はせめて、彼の住所が知りたいと思ったし、電話ではお互いに声変わりしているはずだから、なんだか思い出話している様になるような気がして、ちがうの。わたしは昔の遥と剛君で会話がしたいのよ。という気持ちが強かったものだから、やはり手紙を書きたかった。文通をしたかった。里美先生は彼の現住所を知っていた。遥から話を聞いた彼女は、それは素晴らしい話ね! と、喜んで見せた。遥はそれが少しだけ、母親のような、親友のような、なんというべきか、特殊な絆を感じ取っていた。正直、同意してくれてうれしかった。遥は早速、手紙を書いた。

 

『 

 親愛なる剛君へ。

 

 わたし、はるか。中学まで一緒だった兒玉遥よ。おぼえてくれてた?

 北海道から転校してきた遥っていえば、思い出してくれるかしら?

 ごめんね。突然、手紙なんか書いちゃって。

 もしかしたら、あなたは結婚してるかもしれないし、それとも他の理由があって迷惑だったかもしれない。本当に一方的でごめんなさい。でも、剛君なら許してくれるわよね。いいえ、そうだとおもう。ごめん、また迷惑なこと書いちゃった。

 わたしはいま、宮古島に居ます。最近ちょっとしたことで帰ってきました。

 ほんとうに久しぶりの匂いがするものだから、幾分、心は癒されたけれど、でもね、きいて。剛君。わたしは貴方がここにいないことを知らなかったものだから、いいえ、高校から沖縄本島の方に行くことは分かっていたけれど、でも、もしかしたら、と思ってた。でも、ちがうのね。こればかりはどうにもならないことですもの。わたしが反省すべきことだわ。またそんなこと言ったら、まるで剛君が悪者みたいになっちゃう。本当にごめんなさい。そういうつもりではないの。手紙が下手でほんとうにごめんなさい。

 それでね、きいて。剛君。

 わたし、絵をずっと描いてきたわ。高校も大学でも社会人になっても。だから、こんど、あなたの肖像画を描きます。それを次回の手紙に添えて送るね。迷惑だったら本当にごめんなさい。(でも、わたしの肖像画を贈りつけるよりはよっぽどましでしょ?)

 でもね、きいて。剛君。

 わたしはしばらく、ここ、宮古島に滞在するけれど、でも、北海道にも行きたいと思っているの。むこうはおかあさんのお墓があるから、そこに私の骨も一緒にしてもらわなきゃって。なんてこと、この若さでは考えることではないわね。うふふ

 それでね、ときどきこんなふうに年甲斐もなく思い更けることがあって、わたし自身、どうにもおさえきれなくって。やだ、どうかしてるわ。突然の手紙にこんなこと書いちゃって、本当に迷惑だったらごめんなさい。

 どうしてそんな気の遠くなるような先のことをふと考えるのかというと、やっぱり、私の身体に関係していると思うの。健康状態というか、いろいろとね。それについてはまだ整理がついてなくて、剛君に今は話したくないの。だから内緒にしてていいかな? ほんとうにごめんね。そんなつもりではないの。ただ、嫌われたくないから。それだけの理由。でも、いつかは話す時が来ると思います。それまでこの事に関しては訊かないで。

 まだまだ書きたいことは、伝えたいことはたくさんあるけれど、今回はこの辺にしておきます。余計な時間を使わせちゃってほんとうにごめんなさい。

 それでは、ごきげんよう。

 PS

 剛君が良ければ、わたしと文通しませんか?

 期待しないでお手紙の返事待ってるね。ありがとう。

 

兒玉遥より

 

 一か月後、手紙が返ってきた。

 

 親愛なるはるかへ。

 

 はるか。元気してたんだな。本当に良かった。

 さっそくだけど、俺の近況について話しておかなければならないな。

 と思って、乱文ながら書かせてもらうよ。

 俺は高校を卒業してから沖縄電力という大きな企業で働いてる。でもそれは、電力所と 言う訳ではなく、なんというかな、恥ずかしいんだけど、電気発電所で働いていると思われがちがけど、そうじゃなくて、沖縄電力は沖縄電力でも工事現場の電気屋って言う部署で働いているんだ。現場作業員というやつだよ。思いっきり力仕事。

 それで、今はアパートで一人暮らししてる。ワンルームの。

 狭い部屋だよ。でも一人だと逆にこれくらいが落ち着くんだ。不思議だな。

 絵の件、了解した。よろしく、かっこよく描いてくれよな! 頼むぜ!

 人には聞いていけないことだとか、話したくないだとか、触れてはいけないこともある。それは俺だってあるから気持ちはわかるよ。

 だから、はるかが気持ちの整理ついたときに話してくれればいいと思っている。

 俺、男だから、あまり長文は書けないけど、でも頑張って書くから、こちらこそ文通よろしくな!

 それでは、返事待ってるよ。

 絵画楽しみにしてる。

 

剛より

 

 遥は剛の手紙を読んで有頂天になった。このうえなく喜んだ。嗚呼、元気にしていたのね。よかった。そしてわたしのことを覚えてくれてたこと。剛君だったら明るい性格しているから、自分からいろんな女の子に声かけてて、友達だとか、もしくは彼女だとか、できたでしょうね。それでもわたしのこと、ちゃんと覚えてくれてたってことは、彼女という枠の中にわたしもちゃんと入っていたと言う事。まあ、なんてすてきなんでしょう わたし、ちゃんと生きてる。こうして喜べる幸せがあるってことは、とても素晴らしいことよ。そして、剛君とまた会える日を楽しみにするっていいわね でも、だけれど、彼は、いまのわたしを見て何とも思わないはずなんてないもの。やっぱりどこかで避けられそう……。しかたないわね、こればかりは。それをこらえてでも逢いたい。再会したい。そして夢の続きを現実で見るの。ザナドゥのあの世界の続きを。そう、素っ裸でわたしが横になって、上からつぶすように剛君が乗っかってくるの。そして挿入する。とても気持ちの良いセックスだわ。やっぱりセックスは愛。愛が全てなのよ。

 遥は、いけない! また、えっちな妄想しちゃった。きをつけなきゃ。と我に返る。

 静かな空気が部屋中を漂っていた。さあ、絵画を描きましょう。剛君の肖像画を、素っ裸の彼を描こう。その日から彼女は絵を描き始めた。まずは下絵から描く。肖像画には時間を必要とした。遥にしては珍しく、何度も何度も失敗しては、絵を破いて捨てた。くやしかった。悔しくてたまらなかった。久しぶりの絵画と言っても、それプラス、下半身にも力が必要だったものだから、強弱描きにくかった。はあ……、少し休憩しましょう。ティーカップをすすって、お上品に音をたてないように気を配って、お嬢様らしく。そう、わたしには、まだ、生きる誇りがあるのよ。下半身なんかに負けないんだから!

 遥は、感情のままに、情熱なままに、絵をかくのが好き。それが得意であり、特権のようなものだったものだから、力の入らない今、極力、短い時間だけ集中するように心掛けた。すこしずつ、すこしずつ絵を塗りつぶしていく。完璧な油絵はやはり時間がかかった。そしてついに肖像画は完成した。手紙を書く。

 

 親愛なる剛君へ。

 

 剛君。げんきにしてますか?

 わたし、遥。こちらは元気にしています。

 最初の手紙を書いてからだいぶ経ったね。本当に長かった。

 でもちがうの、聞いて、剛君。

 それは剛君が悪いだとかそんなんじゃなくて、そうじゃなく、一方的に待ちわびてるわたしが悲しいの。そして辛いの。

 それでも、わたしはあなたのことが、あなたの手紙が恋しいの。生きる気力になってる。本当に手紙書いてくれてありがとう。

 わたしは正直、もしかしたら返事が来ないんじゃないかなとか、いろいろ心配してました。でも、剛君はそんな人じゃないから絶対に来るって信じてた。そして先日届いたの。すごくうれしいし、もう気絶してしまいそうだけれど、でも、これから肖像画を描かなきゃって、そう思って、意識失うわけにはいかないもの。と、キャンパスに向かいました。

 わたしはすごくいま、剛君と再会したい気持ちでいっぱいです。また夢心地でいたいの。でも、お互いに事情があって直ぐというわけにはいかないこともわかってるわ。そして、それはとうぜん、わたしが一方的に考えていることであって、剛君からしてみれば、宮古島までわざわざ会いに来るのが億劫でしょう? だから、わたしは我慢します。

 けれど、だけれど、』

 

 遥は硬筆を止めた。物思いに老けて考え込む。

 ずっとずっと悩んでたこと。考えていたことを。

 

 わたしは……、わ、わたしは……

 

 わたし、あなたのペニスがほしいの。

 

 ――いやっ! 彼女は頭を抱え込む。どうして? どうしてそうなるの? これではまるでわたしが淫乱女じゃない。でもちがうの。そうじゃないの。大人の関係とは、そんな枠の中ではないのよ。愛し合うと言う事を求めて何がいけないの? わたしが女だから? だから許されないの? おかしい。だっておかしいでしょう? わたしは彼のことが好きなの。大好きなの。心から愛しているのよ。遠い昔から。薄い記憶の中から。そうよ、だからなに? わたしがいけなくって? マリヤ様、それはいけないことなのですか? 嗚呼、書きたい。剛君がとても欲しいと書いてしまいたい。でも、彼はそれを読んでどう思うかしら? とつぜんペニスがほしいと書く女のことをどう思うのか? 感じるのか? 答えは明白じゃない。なによ! 男はみんなそう。自分勝手なのだわ。欲しい時に本当はいれてほしいの。わたしは、わたしは人間ですもの。性欲を欲する人間なの。一人の女性なの。どうせわたしは身体障害者よ。もう下半身は動かせないし、騎乗位だってできない。ペッティングから白く世界が見えるまでの間中、わたしは天井を向いているのよ。そんな悲しいことってあるかしら? わたしは微動だに出来ないのよ。うろたえることも、喘ぐこともできない。踊れない人魚はただの魚なの。もう私は女ではない魚なのよ。それは剛君をあきらめると言う事と同じことだわ。人間と魚は交尾できないし、一緒に生きていくこともままならない。夫婦のように支えあう事が出来ないのよ。じゃあ、どうしてわたしは剛君を惑わすのかしら? 誘惑するのかしら? 絵画なんてとんでもない。本当は描いてはいけないのだわ。でも描いた。もう完成までさせてしまって、わたしは後には引けないの。引いてはいけないところまで来ているのよ。わたしはやっぱり人間なんですもの。一人の女性ですもの。

 

 けれど、だけれど、わたしはあなたがほしい。あなたに抱かれたいです。

 こんな恥ずかしいことを書いてしまって本当にごめんなさい。

 ほんとうにどうかしてる。でも、どうにかなっちゃいそうなの。

 おねがい、たすけて。

 

 遥は手紙を待った。しかし、待てども待てども手紙の返事はこなかった。嗚呼、やはり嫌われてしまったのね。それは、ずだんだくじく雲(哀愁の空模様・滝川寛之による新語)に雪景色が広がったようなきもちになる始末で、もはやどうしようもなかった。

 だが、しかし、ようやく三か月後、一通の手紙が来た。

 

 前略、兒玉遥さま。お元気なされているでしょうか。

 私は剛の母親である智子といいます。

 このたびは、剛の肖像画を贈って頂き大変感謝いたします。彼も相当嬉しかったのか、家族の皆に見せて自慢しておりましたよ。こんなにかっこよく描いてもらったとそれは誇らしげにしておりました。本当にありがとうございます。

 実はいうと、その絵画を宮古島から那覇に越した実家の方へと自慢しに来た翌日である月曜日に、建築現場の方で不慮の事故がありまして、剛は帰らぬ人となりました。本当に悲しい出来事です。

 私があなたの手紙を見つけたのは三か月後の今でして、これは返事を書かなければ、彼女はいつまでも待ちくたびれて迷惑掛かるだろうと、さびしい思いをしているだろうと考えまして、こうして剛の死を報告することにしました。どうか私共々御気を確かになさって、そして祈って頂けると本当にありがたいです。

 

 遥は愕然とした。そして絶句した。そんな、まさか――。とても信じられなかった。どうして? どうしてなの? たいせつなひとは、みんな、あの世へと消えていくばかり。そんなの酷すぎる。酷すぎます! マリヤ様! 嗚呼! 彼女の思考はミキサーでぐちゃぐちゃになった様子で滅茶苦茶となる。嗚呼、嗚呼、嗚呼……。嗚呼! 嗚呼! 嗚呼! もうわたしは駄目だわ。終わりにしなきゃ。人生を、全てを。もういいの、わたしの余生なんかいらない。今すぐ殺して。木端微塵にしてあの世へと送り込んで。そして再会するの。お母さんと剛君に。だって、そうでしょう? わたしはもう失いたくないの! 離れたくはないの! 嗚呼――! 遥は、机上の片隅にあるカッターナイフで思い切りよくリストカットした。鮮血が飛び散る。段々気が遠くなり、やがて意識を失った。彼女は死んだ。

 

 

 遥は暗闇の中にいた。

 そこには何もないように感じる。完全無なのだ。それについて彼女は、暗闇がそうさせているのだろうと勘ぐった。しかしそれは少しだけ異なっていた。見えない闇の中に手を弄っても本当に何もないのだ。おかしいわ、ここにはわたし以外に彼がいるはずなのに。そしてわたしの大切なおかあさん。今ではすっかり遥も大人よ。おとななんだから。彼女は独り言をぼそりとつぶやく。どこ? どこにいるの? 剛君、おかあさん。なんにもみえない無であるが故の、誰一人として存在しないこの世界は、とてもとても寒いことに遥は薄々と気が付いた。体が最初はほてっていたせいもあったのだろう。感じるのが遅かった。彼女は自身が全裸であることにも承知した。ここまではいい。だがしかし、産毛ひとつすらないと悟ったときは破滅的。絶望的。だってそうでしょう? わたしは女なのよ。これでどうやって剛君に会えっていうの? ひどい! ひどすぎます! マリヤ様! 現実は容赦しなかった。――痛い! 鞭打ちのような激痛が足首を襲。屍たちの刃。なに? なんなの? 遥はうろたえる。そして拒絶した。いや! いや! あっちへいって! だがしかし、何も見えない闇の中で、果たしてそれらが屍なのか、狂気に噛みつく歯なのか、全く知る由もない。感覚でしか分からないのだ。彼女は逃げた。できなかった。いったい、この暗闇のどこに走れないいと言うのだ? 確かに駆け出してみた。無駄。足元には何かがいる。そして思い切りよく噛みついている。それも大多数。もはや血まみれ。貧血を起こしそうなほどに、出血多量。遥はとうとう倒れた。失神。しかし、そのとき。声が聞こえる。こちらまで届いている。はるかちゃん。はるかちゃん。と、呼んでいる。男のひとの声。何処かで聞き覚えがあった。思い出す。斉藤のぶこし先生だ。

「せんせい――!」

 必死に喚いた。意識はしっかりして戻っていた。のぶこし先生は言う。こっちへきなさい。と。だが見えない。こっちとは声のする方向? 一瞬、思考が巡る。あそこへ、あそこへいけばいいのね? あそこ……、あそこ……。そして、とうとう彼女は、病棟で目を覚ました。のぶこしせんせい……。居たんですね……。と、呟く。彼は里美先生と共に病室へと足を運んでいた。

 翌日、退院時のことである。

「先生、わたし、もうつらい――!」

 しくしくと泣きじゃくる遥。里美とのぶこしの二人は、肩を摩ってあげることしかできなかった。辛いだろうに。そう思いながら。安易な慰めは彼女を苦しめるだけ。それを承知しているからこその、せめてもの行為。帰宅後、デイケアたちをよそに遥は放心状態となった。とにかく何もやる気が起きないのだ。食事も、庭の花を見る事も、そして写真を眺めながら絵を描くことも出来なかった。やりはしなかった。

「わたし、もう絵を描くことをやめます」

 しばらくしてからの話だ。里美先生にそう告げた。どうして! 返ってくる言葉はそれしかなかった。遥はそれがとてもつらいと思った。でも、それでも、続けなければならない。助成金のこともあるし、絵画をやめると言う事が剛君にとってこの世に未練が残るのではないのか? 成仏できないのではないか? お母さんも同じだと思う。彼女は考えていた。

 やはり絵画には力が入らなかった。それを里美先生から言伝を受けたのぶこし先生が、コンクールでも目標としたらどうだろうか? と案じてきたものだから、遥は閃いたようにして目を大きく開けた。そうか! それだわ! と。彼女はその日から国内のコンクールへ向けてひたすら絵画に没頭した。そして数々の賞を総なめにする。気が付けば、国内画家で遥の名前を知らないものは一人とていないほどになっていた。徐々に海外へ噂が流れ始める。日本にすばらしい画家がいるらしい、と。遥は、のぶこし先生の協力でフランスにて個展を開くことになった。客足は遠かったが、これが海外進出の第一歩だったものだから、彼女はひっきりなしに興奮していた。新たな生きがいを見つけて、過去の不幸がやっとのこと思い出となりそうな気配がした。そうだった。遥は海外へと飛行機に乗れなかったのだが、代理として遠征したのぶこし先生が、彼女のことを事細かく訪問者に紹介したのだと言う。正直ありがたかった。

「実はいうとね、君が幼い時に描いた絵画も持っていたのだよ」

「え? もしかして、文部大臣賞取ったあの絵のことですか?」

「うむ、あれはいい。大変すばらしい絵画だからね」

「ビジターはなんと?」

「大変驚いていたよ。小学低学年からそのような才能があったのですねと感心していた」

「そうですか……。うれしいです」

「うむ」

「あの、のぶこし先生。よかったらなんですけれど、中高大の代表作もみてくださいませんか? 中には良い作品もありますので。小学生と社会人の物だけを見せられても、わたしが何となくでしかイメージできないと思うから……。身体障がい者になる前の物も見てもらいたいのです」

「遥ちゃん、その身体障がい者というのはやめなさい。まるで自身を差別しているみたいで、第三者の私が気分悪くなる。気持ちはわかるが、その様な言葉使いは良くないぞ。私はね、君のその様な言葉使いはとてもじゃないが感心できないな。これから君は世界のHARUKAになるんだ。言葉には細心の注意を払ってほしい。いいかね、絵も大事だが、言葉も同じくらいに大事なものなのだよ。分かったね?」

「すみません。そんなつもりではなかったのですが……。ごめんなさい」

「うむ。ところで、その中高大の代表的な絵画というやつは? 此処にあるのかね?」

「はい、引越しの時に、東京から持ってきてあります。観てくれますか?」

「オフコース。ぜひ私に見せてくれ」

 遥は、デイケアの職員に手伝ってもらい学生自分の代表絵画を取り出した。これなんですけれど、どうでしょうか? 言いながら、のぶこし先生へ手渡す。うむ……。彼は暫くの時間、それら絵画に憑りつかれたようにして見入っていた。時刻は正午過ぎ。カーテンを開けた窓の外は、ややくもり空を匂わす弱い光。チックタックと鳩時計の振り子が指針を動かしている。やがて、のぶこしは顔を遥へ向けて発した。

「良くできている。これなら出せる。まったく、素晴らしいじゃないか」

「ありがとうございます」

「やはり君という人間は天才画家というにふさわしい。ぜひこれからも傑作を描いていってほしい。日本のために、そして自分のために」

「はい……

 のぶこしは、受け取った絵画を大切そうに横へ置くと、頂いていた紅茶をひと口すすった。遥も同様にレモンティーで口を潤した。

「そういえば、画廊の方はまだオープンさせていないのかね?」

「はい、なんだかそこまで手が回らなくて。描くことだけで精一杯なんです」

「もったいない。助成金とやらは少ないのではないのかな? 大丈夫かね?」

「なんとか。先生、次回の個展は何処でしたでしょうか?」

「暫くはフランスの各所(美術館)を訪問だよ。アメリカへも行かなければな」

「アメリカ……、ですか?」

「馬鹿にはできないぞ。むこうは芸術家が集結している。本物でないと生き残れない」

「本物とは、個性ですか?」

「うむ。まあ、君の場合は考える必要もなかろう。すべてがそろっている」

「そんなことないです」

 遥は自身の絵画における紀行みたいなものがとにかく楽しかったし、のぶこし先生の土産話にも夢中となって聞いていた。彼は何度も絵画を販売したほうが良いと言ってきたのだが、彼女は何だかその話に乗り気ではなかった。しかしながら、地中に埋もれてしまうのも御免だったために、近いうちに画廊を開いて、そして、国際と国内のギャラリーの時にでも、あの小学生で覚えた丸いシールの落札方法で購入者を募り、そして綺麗な家の壁にかけて飾ってほしいと願う。それもわたしの絵画たちにとっては幸せなことですものね、と考えるようになっていた。のちのち国際的なエージェントと契約を結び、遥の絵画を販売するようになった。そこに行きつくまで大して時間を必要としなかったものだから、のぶこし先生はいつもいつも君がうらやましいと冗談含みに話していた。しかしながら、わたしに大金が入っても、ほとんど寄付に回るだけですから。と彼女は、はぐらかしたのだった。実際そうであった。遥はもう二度と異性と交際することをしなかったし、もうわたしは絵を描くことしか残されていないの。とデイケアの人たちにこぼしていた。お金をもってしても、宝の持ち腐れのようなもの。

 だいぶ年月が過ぎたころ、斉藤のぶこし先生が死去した。とても悲しい思い出となる。そしてまた、心からありがとうございました、と言いたかった。のぶこし先生、あなたの夢でもあった世界のHARUKAは、ちゃんと生きています。どうか安らかに。そう言づけを贈った。葬式には出れなかった。仕方のないことでもあった。

 遥の代理人は里美先生が引き継いだ。教師を辞職しての転職。だが、彼女はもうすでに定年近くまで来ていたために、遥の誘いには喜んで引き受けてくれたほど。里美先生は既婚者となっていた。子供が一人いた。男の子。宮古島のホテル従業員と結婚してい

 これまでに様々な国際賞も受賞してきた。世界のHARUKAは名実ともに晴れ晴れとしていた。そんなことはなかった。遥はいつものように生活を送り、いつものように絵画を描くだけの毎日を過ごす。手動から電動に変わった車いす以外は何にも変わらない。しかし、この謙虚に生きる事こそ美を感じた彼女は、いくら大金を得たところで絶対に変わらない意地みたいなものが隠れて存在していたものだから、里美はいつも、もう少し贅沢したらいいのに。と、発していた。いいえ、私の心が変わってしまったら、絵画の質どころか大切だった人たちのことを忘れることにつながりかねないでしょ。だからいやなの。遥はそう返したことがあった。その後から里美はこの件に関して何も言わなくなった。

 やがて、遥も里美もお婆ちゃんと言われる年になったころ、里美が脳梗塞で突然死した。旦那の方は先に他界していたものだから、だいぶ大人になっていた彼女の息子が葬式などを手配しておこなっていた。墓は宮古島にある。遥は葬式にも出たし、墓参りもした。

 遥はこのころから北海道へ移住する計画を立てた。死に場所は北海道と前々から決めていたからだ。宮古島にはもう大切な人はいない。みな他界してしまった。遥も死期を感じていたし、北海道は沖縄よりも老人に対して厳しいけれど、お手伝いさんを雇えば何とかなると、そのまま計画を進めた。

 春先の頃、遥はお母さんの墓参りを済ませてから自身の住まいへと戻った。お手伝いさんがいる。その彼女が運転するワゴン車で移動した。家は木こりが作ったようなロッジで、札幌郊外。庭に鳥のえさを置くと、時折、大鷲が姿を現すような場所。夜はオオカミが遠吠えしている。非常に大自然の真ん中で遥は余生を送った。

 北海道に移住してから最初に描いたのが庭の風景画。小鳥たちが集うその場所に的を絞って遥は絵画を描いていた。少し経ってから、彼女はとうとう画家を引退することを考え始めていたものだから、最期に描くのは何にしようか毎日悩むようになっていた。色々と若いころに撮った北海道の写真たちを見比べてみる。そういえば……。遥は思い出したようにして写真をあさった。それはトマム駅の風景写真。これにしましょう。彼女はそう考え、その写真を引き出しにしまった。

 最後の絵画を描くとき、遥はもう一度立てないか確認してみた。駄目だった。しかたがない。本当に力が全く入らないけれど、なんとか最高の絵にしたい。そう思ってトマム駅の風景画を、毎日、毎日、描き続けた。そして三か月後、ようやく絵画は完成した。

 この絵はぜひ、人の目に触れてほしいわ。そう思い、遥はすぐにでもエージェントへ電話した。デジタルカメラで撮影し送るのも忘れずに。エージェントは素晴らしい絵画だと絶賛した。エージェント、これがね、私の最後の仕事よ。遥は言った。なんだって? 引退するのか? ええ、そろそろお迎えが来るころだし、筆に力が全く入らないのよ。そう返した。

 トマム駅の風景画の題名は「原付バイクと風景画」にした。実に因縁の組み合わせである。遥は、事故のことも、障がいのことも、全ての思いをこの絵にぶつけたつもり。最高傑作。最後にふさわしい絵画だわ。そう思っていた。

 その翌年、画家にとって、もっとも偉大な賞の関係者から連絡が入った。ウルフ賞の受賞確定である。遥はうれしかった。嬉しくてうれしくて仕方がなかった。まあ、なんてすてきなのでしょう。このわたしがウルフ賞を受賞するだなんて。これはきっと神様からの贈り物。冥土の土産というやつだわ。この賞を天国へ持ち去って、ぜひとも、のぶこし先生、里美先生、おばあちゃん、そしてなんといってもお母さんに見せびらかそう。そう思うと心が何歳か若返ったもの。賞というものは縦続きに来るもので、その翌年に、彼女は国民栄誉賞受賞と無形文化財に指定された。人間国宝である。しかし、明るい話題もそこまで。

 遥は末期のがんに身体をやられてしまった。骨に異常があるかと思ったが、まさか癌細胞がそこにあるとは思ってもみなかった。彼女はやむなく札幌市内の病院へ入院することとなった。その手続きなどはお手伝いさんが全て行ってくれた。遥は、お見送りまでよろしくお願いします。お母さんの墓へ一緒に納骨してください。と、言づけていた。遥はもう個室の病室から出れる状態ではなかった。常に点滴を打っている。ときおり、覗きに来る、他の患者における見舞いの連れ添いかはわからないが、男の子が一人いた。遥はその子を呼び止めて完熟メロンをやった。

「あなた、名前はなんて言うの?」

「ぼく?」

「そうよ、ぼくちゃん」

「僕の名前は大山剛!」

「まあ! あなた、剛君っていうの?」

「そうだよ

「わたしの名前を知りたい?」

「うん」

「わたしはね、わたしはこだまはるか。漢字ではね、こう書くの。兒玉遥。どう? 素敵な名前でしょ? わたしは遥かなたまで届くのよ。この思いが。情熱が。それでね、剛君、あなたにも意味があるのよ。あなたの名前にも意味があるの」

 遥は斉藤姓ではなくて兒玉姓をあえて使った。

「剛は強い子。そして、とても優しいの……

 遥は突然、息が苦しくなり、目をつむった。

 嗚呼、ここは昔見た、黒い世界ね。でもちょっと待って。わたしはザナドゥへと行きたいの。わかるでしょう? そう、あの泉がわいて、良い香りのする芝が生えた川辺よ。そこに居るはずだわ。彼が。そう、きっといるはずよ。彼はわたしを待っているの。こうして手を伸ばして。嗚呼、剛君。もうすこしよ。あと少しだけ伸ばしてちょうだい。そう、ゆっくりと握って。わたしの手を。若返ったわたしの姿を、どうか抱いてください。剛君、わたしは、わたしはあなたを愛するために生まれてきました。だから言って。愛していると、そうささやいて。嗚呼、わたし、とても幸せ者よ。

 遥は少年の手を握りしめている。それは現実なのか、それとも夢の世界でなのか、まったくと言ってよいほどに、わからなかった。こん睡から目を覚ます。そこにはもちろん、彼女を待つ彼が、優しそうな表情をして立っていた。

おわり

コメント