オーミチャー 10

 オーミチャー 10

 そういえば、ここ(東京)へ来てから、まだ一度もトンミーに電話をかけていない。落ち着いたら、落ち着いたら、と考えているうちに、一年、二年、とすぎてゆく。時間は実にあっという間。

 今年の四月は春の訪れが遅くて非常に凍えたものだが、それでも桜の花は満開となる。急激に暖かくなってゆくこの気候は、とにかく風邪を誘発した。それにスギ花粉。たまらずマスクをつけたのだが、目がかゆくて仕方がない。病院でもらった薬はたいして効能を発揮しなかった。

 やよいは考えていた。今日こそは電話を掛けよう、と。

 そういえば訓練校へ進学すると話していたっけ。どうだろう? 受験は合格したのかなぁ? 

 三千円のテレフォンカードをタバコ屋で購入すると、彼女は公衆電話ボックスへ急いだ。

 施設の電話が鳴る。それが受話器越しで聞こえた。トゥルルル……

 事務らしき職員が電話を取った。トンミーを呼び出してもらう。だが、それができない。話によると、中学卒業後に東京へと旅立ったということ。

 なんですって? 東京へ? 

 やよいは顔面蒼白した表情で愕然とした。彼もまた売られたのだ。

 嗚呼、なんてことなの? あれほどレールから脱しなきゃだめよって話したのに……

 もうどうして――

 どうしてなの? ねえ、神様。そんなことってないのではないかしら? あんまりだわ。わたしたち兄弟はね、小さいころから苦労して生きてきたの。両親もいない。施設でずっと世話になってきたの。その代償なのかしら? 人身売買だなんてあんまりよ。どうしてそんなにいじめるの? ねえ、どうして? 茜が出てくる。

 あらあら、こんなに泣いちゃって。これはもう笑うしかないのではないかしら? みっともなく泣いてなさいな。それで何が変わるわけでもないのに。オーミチャー、あなたって本当に醜い女ね。まるで雌豚そのものだわ。あなたなんかチャーシューにでもされてラーメン行きなのよ。弱肉強食って言葉があるじゃない? そう、その言葉通りに、オーミチャー、あなたはね、食われて消化されてウンコになる始末なのよ。そして畑の肥やしにでもよくて? 立派なバナナが育つでしょうね。あははは! バナナよ、バナナ。あなたの大好物ではなくて? やよいが反撃する。

 なんですって? 言わせておけば。こんなにも叩きつける言葉の暴力ってあるかしら? 茜、あなたって本当に屑ね! 人間以下だわ。そんなあなたこそ糞まみれになって田んぼの肥やしになるがいいわよ。あははは! あなたはなんにもわかってない。田んぼの肥やしってことはカラスのエサくらいにしかならなくてよ。ひどいもんだわ。みじめなものね? 茜。

 なんですって?

 なによ?

 ほうら、いつの間にか涙が止まってるじゃない。そうよ、怒りで涙をおとめなさいな。それがあなたのすべきことなのよ。泣いたって始まらない。怒って怒って怒涛のごとく世界を逆転させてやればよくてよ! 

 茜? そうだったの? これはわたしを慰めるために発した腐れ文句だったのね? あなたって意外と人情があるじゃない。

 そんなことなくてよ。わたしはね、ただ黙っていられなかっただけ。けっしてあなたの味方ではないわ。

 そうよね、そうでなければ呪い移ったりなんかしないもの。でもね、わたしは感じるの。あなたは味方でもあるんじゃないかって。

 うぬぼれるのもいい加減にしなさいな。

 そんなことないじゃない。いいえ、あなたほんとうはいい人なのよ。

 やよいは寮へ戻ると、寝室で横になった。

 今日はとりあえず弟の住所を知ることができたわ。電話はつながらないって嘘よ。本当は寮か何かにピンク電話くらいあってもいいはずよ。それとも組関係かしら? まさかやくざ組織と――? 

 考えれば考えるほどにいやな予感がする。

 わたしだって言ってしまえば組関係だものね。トンミーだっておかしな話ではないわ。まったく、施設ってどんな闇組織とつながりがあるっていうのかしら? キリスト教の施設がやくざ組織とつるんでるだなんて、本当に世の中めちゃくちゃだわ。いいわ、こうしましょう。わたしが日曜日の夜、彼の住所へ行く。日曜日の仕事は忙しいから休めないわね。この日だけ昼勤でお願いしましょう。新宿の西麻布ね。いかにも怪しいわ。まさか右翼組織でなければ不幸中の幸いだけれど、どうかしら? 本当に心配だわ。杯を交わしてなければすぐに連れ出さなきゃ。

 次の日曜、渋谷から新宿駅へと搭乗電車が流れる。東京マップを持参したやよいに迷いはなかった。道案内など必要ない。番地まで載った地図だからだ。主に業務用として使われている代物だった。

 西麻布……。うわさには聞いている。この土地はコリアンズマフィアのテリトリーだということを。なので韓国教会が多い。裏で麻薬組織とつながっているといわれていた。

 トンミーはもしかしたらコリアンズマフィアに在籍しているのかも。でも、どうしてそんな厄介な組織へ売られたのかしら? これじゃわたしが手を出せないじゃない。とても連れ出すことなんかできないわ。それなら二人ともあの世行きだものね。困ったわ……

 目的地の目印となる小さな公園へ着いた。少しだけ用を足したかったので公衆トイレへと急ぐ。二人組のイラン人に出くわした。何やら怪しい趣だ。

 こんなところで何をしているのかしら? 麻薬の密売? 商品手渡し所なの? 

 トイレなんか来るんじゃなかった。少しだけ後悔する。ベンチには浮浪者たちがたむろしていたものだから、幼児を連れた母親などの姿は一切ない。

 治安が悪そうね。物騒だわ。

 早めに用を足してトイレを後にする。イラン人たちは絡んでこない。

 よかったわ……。さあ、弟へ会いに行きましょう。

『稲垣会:同友館。西麻布寮』

 場所は間違いなかった。でもまって、稲垣会ですって? やっぱりコリアンズマフィアがらみだったのね。どうしよう、連れ出せるかしら? 

 寮の入り口である観音開きのガラス扉を引いて中に入る。途端、桃のような甘い香りが鼻へ届いた。覚せい剤だわ――! 

 やよいは知っている。自分のところ(彼女の寮)数名がポン中ものだから、この香りはよく理解していた。守衛も何もいないのに、よくまあこんなに堂々と吸えたものね。そんなことは考えなかった。トンミーの身が危険にさらされている。まさか、もしかして、弟もジャンキーに染まってしまっているのかしら? 不安は募るばかり。

 部屋番号は知らない。さて、これからどうすればよいのか。オーミチャーは途方に暮れて通路に立ち尽くした。その時。

「よお、彼女。誰の女だい? 俺と一発キメねえか――?」

 振り返ると、上目使いの男が立っていた。

 いやっ! 乱暴にしないで! 思った。怖い、怖いわ……。でも、訊かなきゃ。トンミーはどこの部屋ですかって。聞くのよ、このおかしな人から。訊くの、勇気を出して。わたし……

「あ、あの、ここに弟がいると聞いてきたのですが……?」

「弟? 名前なんだい? 新入りなら一人しかいねえけど、トンミーのことか?」

 男はオーミチャーの若さから、弟が新入りだと勘ぐったみたいだった。

「はい、その子です!」

「ちっ! まってろ。今呼んでくらあ。しゃぶしゃぶキメてなきゃいいけどな……

「しゃぶしゃぶ?」

「知らねえのかよ? あんた素人さん? 恰好から見て裏っぽいけどな」

 お水の格好をしていたやよいはそう思われて仕方がない。実際、裏の人間だ。だからどうした? 彼女はそれでも人間である。立派な東京人。

 男は奥のほうへと消えた。少ししてからだ。スキンヘッドらしき人物が遠くから現れた。オーミチャーの目に狂いはない。トンミーだ。

「琢己――!」

「その声は……、おねえちゃん?」

「そうよ、お姉ちゃん。あなたどうしたの? どうしてここにいるの?」

「ちょっとまてよ。お姉ちゃんこそ、どうしてここに?」

「施設に連絡して聞いたの。もう! 電話で相談もなしに東京へ来ただなんて……

「おねえちゃん、水商売してんのかよ?」

「そんなことはどうでもいいの。いますぐ荷物まとめてきなさい。出るわよ」

「ちょいまち! それはまずい。命が足らない」

「杯交わしたの? だめじゃない!」

「仕方なかったんだよ。行くとこもなかったし」

「訓練校行くって言ってたじゃない!」

「面倒になったんだ。おねえちゃんみたいに早く自由になりたかった」

 やよいはその気持ちがよくわかる。もはや琢己へ何一つ責めだてることなどできやしなかった。一呼吸置く。それからそう……とだけつぶやいた。

「おねえちゃん、連絡先は?」

「わたしの? それなら名刺を渡しておくわ」

 琢己が見る。

 店、横浜なんだな……。寮とかの電話は? 

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