運タマギルー 最終話特大号

 運タマギルー 最終話特大号

 朦朧とした意識の中、彼女は震えた両手で必死に手探る。靄のようなものが邪魔だ。かき分けてかき分けて姿をみようとするものの、触れようとするものの、あろうことか感触は伝わらず、どうにもならない。ベッキーは泣いた。悔しくて悲しくて涙が止まらない。ご主人様はここにはいない。頭のてっぺんをハンマーでかち割ったようにして意識が重くなった。

 嗚呼……。嗚呼……

 彼女は発狂しだす。

 きえぇぇ! きえぇぇ! きえぇぇ――! 

 脳が締め付けられて、血管は吹き出し、眼からも鮮血が流れた。やがてベッキーの脳は破裂する。粉々になって死に絶えるのだ。

 ベッキーは夢の中で夢を見た。幻影がうっすらと霧にかかっている。彼女はハッとして頭部を手でもって確認した。ある。たしかに。しかしながら頭髪がすべて抜け落ちたようにして無いではないか。それからこの世界は、先ほどの幻と異なり寒かった。凍えるように寒い。浴衣はつけていない。消えてなくなってしまっている。

 おっ 俺たち少年探偵団――♪” おっ 俺たち少年探偵団――♪”

 突然、けったいなコーラスがこだま含みに響きだした。

 なんのことだろうか? 何のためだろうか? それから、この少年たちであろう声の主たちはいったい、誰……? 

 聞き覚えのない少年たちのこだま声に困惑するも、ベッキーはとにかくそんなことよりも今の姿を誰にも見せてはいけないと察知し、身を隠すススキ群を求めた。だがしかし、どこにもない。あたりは濃霧が漂っているだけで、皆無に等しかった。

 ベッキーよ……。やれ、ベッキーや……

 そのご主人様の声に反応した心理状態は当然、yesだ。しかし、彼女は声を荒たげて、noと叫んだ。それは女性としての本能である。美を意識した人間だからこそのものである。

 もっともっとちゃんとした状態で再会を果たしたかったわ、ご主人様。ごめんなさい、ご主人様。今は会いたくないの。だってそうでしょう? わたしはこんなにも狂ってしまって、目からも、耳からも、鼻からも、口からも、膣からも、血を流している。一体どういうことなのかしら? しまいには頭髪まで消え失せてしまって。ほんとうのところは眉毛だって消えてなくなってしまっているのよ。これじゃ、あんまりでしょう? ご主人様……

 天を仰いでみる。しごく、ずだんだ雲模様(滝川寛之による新語:愚図つくという意味に近いがそれ以上にひどく曇っている様子)だ。その酷い有様に思わず涙が止まる。止まらなかった。

 だからなに――? 

 だからと言って私の代弁者になろうはずがないじゃない。この雲景色は泣いているのよ。ほうらみなさいな、いまにも涙が落ちてきそう。それとも大粒の雹かしら? 降ってしまいなさいな。とことん降ってしまって私をおぼれさせて。勢いよく降りしきってずぶ濡れにして。

 嗚呼、こんなことってあるのかしらね。わたし、本当のところはシンデレラ姫ではないのよ。これはれっきとした人魚姫なのだわ。そう、わたしは、わたしは、これより銛で突かれて標本にされてしまうジュゴンなのよ。でも、どうして! どうしてなの? そんなの絶対に嫌よ! わたしにだって権利はあるはずよ。ええ、そうよ、生きる権利というものがあるの。ねえ、ご主人様。いっしょに行きませんか? 現実にあるもう一つの世界へ。その森で新しく生活を共にしてゆきましょう。

「ベッキーよ、なあ、ベッキー。ワシはもう駄目じゃ。あの日倒れた後、追手どもがワシの首をぎっちょんしてのう。アンダーと共にさらし首よ。まったくなさけん限りじゃて。ワシは今、どうして話してると思う? 知りたいか? ベッキーよ」

 どこ? どこなの? ご主人様。わたしにはあなたの姿が見えないのです。嗚呼、まったくなんてことなの? なんてことなの!

「お前にワシは見えん。とうぜんじゃろうて。ワシはな、ワシはお前の体内から語り掛けておるのじゃ。なあ、ベッキーよ」

 体内ですって? それじゃあ、あの幻影はなんだっていうの? 濃霧にうっすら浮かぶあの影は……。まさか、死神? えっ! それって嘘でしょう? ちがう。あれはたしかにご主人様の影のはずよ。でも、どうして? どうしてご主人様はわたしの体内から語り掛けていると話すのかしら? それっておかしいじゃない。わたしは影のほうから聞こえてるの。こうしている間にも影はどんどん近づいてて、もう少しで姿が見えそうなのに。いったいどういうことなの? ねえ、ご主人様。ご主人様!

「あの影はこれからお前が世話になる主じゃて。お前は囲われるのじゃよ」

 囲われる? 一体どういうことかしら? まったく見当もつかないじゃない。ねえ、どういうことなのかはっきりおっしゃいなさいな。

「まもなくじゃな、まもなくお前は少年探偵団に遭遇する。それが運命じゃてのう」

「少年探偵団とは? 集団のサークル名か何かですか?」

「はて、サークルとは何ぞや? 組のことか? そのようなことなのか?」

「班です。組よりももっと小さな組織。その班がわたしと関係してくるなんて。もうわたし、意味が滅茶苦茶で狂ってしまいそう。でも、もうすでにおかしくなってしまったのですね。ご主人様、そうでしょう?」

「そ奴らは味方じゃて、なんも心配なんぞ要らんぞ」

 わたしは助かるのですか? 訊こうとしてやめた。そうじゃない、思う。

 だって、わたしが助かったとしてもご主人さまは救えないんですもの。こんな運命のいたずらなんてあるのかしら? わたしはご主人様と一緒になりたい。一緒でいたい。それはつまりわたしもこのまま死んでしまえばいいってことなのよ。そうでしょう? ご主人様。でもご主人様は、わたしは救われるという。これってあんまりよね。

 たちまちめまいがする。頭がひどく重かった。

 嗚呼、わたしはもう戻らなくちゃ。現実の世界へ。あの井戸端へ。さあ、ご主人様。一緒に帰りましょう。あなたはわたしの体内にいる。つまりは一緒に現実に戻れるということじゃない。わたしはわたしが心配するほど物事は窮地ではないのかもしれない。そうでしょう?

 あたりがモザイク調に分子化する。そいつが雷の光とともに大きくはじかれた。上のほうから、下のほうから、順番に崩れ去ってゆく。いったいどこへ消え失せるというのだろうか? 答えは明白。

 ベッキーは目を覚ました。あの井戸端。ススキ群のたどり着く先。頭を撫でてみる。頭髪は元に戻っていた。それだけではない。帯は相変わらずなくなっているのだが、浴衣もこうしてつけているではないか。声が届く。もっと近くに、すぐそばに、感じた。思う。少年探偵団とは何者? 

「運玉ギルーなんか怖くもなんともないぜ! だろう?」

「ああ、そうさ! 大鎌持っていたとしてもこっちが先にぎっちょんだ!」

 きえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――

 ま、まさかっ? うんたまぎるぅ? で! でたあっ……! ひえぇぇぇっ――

「み、みんなぁ! ひ、ひんぎれぇっ(逃げろ)――!」

 秋の彼岸はもうすぐそこでした。先に奇声をあげたのはベッキー。少年探偵団の一味はびっくらぽん。恐ろしくて恐ろしくて小便を漏らしてしまいましたよ。それもそうでしょう、髪の毛はロングのボサボサで、なんといっても満子さんから鮮血がただれ落ちているのですからたまりません。これではまるで井戸から出てきた貞子さんではありませんか。おそろしいおそろしい。

 彼女は彼女で、目の前で腰を抜かしている少年探偵団が怖くて怖くて仕方ありませんでした。わたし、もしかしたら少年たちにレイプされるのではないの? そんなことが頭をよぎっていたのです。ぷらんぷらんに揺れている乳房がなんとも生々しい限りではありませんか。むごたらしいむごたらしい。

「きえ! きえ! きえぇぇぇ――!」

「ふ、ふんぎゃあ……!」

 しばらくそのやり取りだけで時間が過ぎてゆきますよ。ベッキーは非常に焦りました。

 もう! どうして言葉を発せないの? 神様、これじゃあんまりじゃない! 彼らへ話をつけないと事が収まりそうにないのよ? 一体全体、わたしが教会へ通ったのって何の意味があったっていうのかしらね? こんな時に神様が助けてくれるためでしょう? なによ! もう信仰なんてうんざりだわ! 今に見てなさい! わたしはもうぐれてやるんだから! きえぇぇ! きえぇぇ! ってね! それでいいのでしょう? わたしの人生なんて、それでよかったのでしょう? 嗚呼、悲しくなっちゃう。涙が止まらないわ。こんなに悲しいことばかりが続くなんて、もううんざりしちゃう。

 ベッキーは奇声を上げながら突進し少年探偵団を払いのけてこの場から立ち去りましたよ。まったくどこへ向かえばよいのか? 見当もつきませんが、とにかく、とにかく、人目のないところを目指して走り続けます。凹凸の激しい山道ですから、素足の彼女にとって痛くてなれないものがありましたが、それでも飛び跳ねるようにして藪の中へと消えていったのです。

 もう、わたし、元の世界へは戻れないのね……

 そうおもうと哀しくなってきます。

 でも、元の世界って、わたしったら、いったいどこのことかしら? ご主人様のいた世界? それとも元の世界のことかしら? たしか……

 まるで思い出せません。神隠しか記憶喪失か? 思い出そうとすればするほどにうやむやになって訳が分からなくなるのです。それから頭がズシリと重い。この感覚は先ほどからずっと続いていたことでした。

 わたしの、わたしのお父さんは、誰だっけ……? それからお母さんは? 姉妹はいたのかしらね? でも、なんとなく思い出せそう。そう、きっと、幸せな毎日を送っていたのだわ。ご主人様との生活もよかったけれど、でも、それ以上に便が良かったろうな……。嗚呼! そうだった! お姉ちゃんは確かにいたわね? 素敵な美人さんで、たしか芸能人の誰かに似ているのだっけ? それからわたしもハーフ娘。アメリカ人と日本人の間に生まれたのよ。そうだった、そうだった……

 突然、心が空っぽになって空白になりましたよ。極度の喪失感というやつです。何もかも失ってしまったのね。そう悟ってのことでした。

 なんだかひどく眠いわ。思います。

 でもどうしてこんなに眠いのだろう? わたしったら、もしかしてひどいうつ病? いいえ、さっきだって眠ったじゃない? それと同じ理由よ、きっと。頭の中が整理できずにミックスジュースなものだから、それを整えようと神経が命令しているの。恐らくそういうことだわ。

 再び考えます。そう言えばお腹がすいたわね。どうしよう……。藪の中に何かあるわけでもないし、いったんここから出て畑を探さなきゃ。もしくはご主人様のおうちよ。ああ、ちがう。そうじゃない。この世界は異なるのだったわね。ご主人様の家はここにないのだわ。それにあったとしても、すべて灰になっているはず。全焼したのでしょう? わたしは途中で死んでしまったけれど、あの燃え方はひどかったもの。

 はたけ……。はたけ……。はたけ……

 きえぇぇぇ。きえぇぇぇ。きえぇぇぇ。

 少しばかり運玉森を下りますと、何やらブルーシートでもって造られた人工沼がありましたよ。それからその周辺で中学生らしき男子児童らが、アンマヨー!(なんてこった!)空き缶でもってシンナーを吸っているではありませんか。ベッキーはその光景を目の当たりにして、腹が煮えくり返る思いがします。

 こっちは死活問題なのに、なによ! 平和そうにシンナーなんか吸っちゃって! みてなさい! 石ころぶつけてやるんだから! 

 彼女は近くに転がっている礫を数個ほど拾いまして、連中の空っぽな脳みそへ向けて、ほうれっ! と、投げつけてやりましたよ。それから見事に命中すると、はにかみながら隠れてしまうのです。少年探偵団にあれほど恐れられたベッキーが隠れるとは、これもまた変な話ですねぇ。しかし、事実は事実なのです。

 いけない! こんなことをしている場合ではなかったわ! おいも、おいも! 早く紅芋を探さなきゃ! 畑から掘って皮についた土ごと召し上がれしなきゃ! わたし、わたし、それくらいに腹をすかしているの! マリヤ様! おねがい! わたしを芋畑へいざなっておくんなまし。さあ! さあ!

 あたりを見回しますと、あった、あった! 紅芋畑が一つありますよ。しかし、どうやら時期外れのようでして、紅芋の青々とした葉が畑いっぱいに広がっております。ベッキーはイモについて詳しくは知りません。まさか時期外れだなんて知る由もないのです。彼女は、はだけた浴衣が邪魔なので、そいつを脱ぎ去り、素っ裸で畑へ駆け寄りましたよ。あたりには誰もいませんでした。イモ泥棒としてはしめたものです。

 はあはあはあ……。いもを、いもを、腹いっぱい食べてやるんだから ああん お芋ちゃーん ほら、出てきなさいな。あらら、どうしてこうしていつまでもお芋が出てこないのかしら? もしかして……? 

 ようやく気付いたようですよ。こんな時期外れに出てくるものといえば、太い太いミミズ位のものです。察したベッキーはとうとう消沈してしまいました。

 もうこうなったら隣町まで行ってサトウキビに食らいついてやるんだから! 頭に血が上ったベッキーは、運玉森の中を北へ向けて歩き出しましたよ。しかしその時です。ごあぁぁぁ! という轟音が耳をかすめました。

 恐る恐る振り返ります。すると、なんとまあ、びっくらぽん! 少年探偵団と遭遇した場所あたりから、ものすごい炎が火の粉を天へまき散らしてめらめらと揺れているではありませんか。

 や、山火事だ――! 思います。

 季節は秋口。運玉森の深緑は空気が乾いて乾燥していましたよ。山火事はどんどんどんどん彼女のいる場所まで襲い掛かってきました。そのスピードたるや本当にあっという間のことです。

 き、きえぇぇぇ――! 

 叫ぶ間もなく、ベッキーは炎に取り囲まれますと、万事は休したかのように思われました。

 嗚呼、やっぱりこの世界でも、わたしったら炎に包まれて死んでしまうのね……。そう、運命は変えられないのよ……。ご主人様、もう直です。もうすぐあなたのところへ向かいますから……

一四二〇、方位……、一名の要救護者発見! 今から向かいます――

 揺らめく陽炎の先に目視できたのは、銀とオレンジ色の恰好をした大人。ありったけ水をかぶる。最初、それは天からの恵みだと思った。それからは意識がはっきりとしない。気が付けば病院の寝室にいた。

「あら? 目が覚めたみたいね。ごめんなさい、起こしちゃったかしら?」

 この美しいおとなの女性は、一体、だれだろう? 容姿に、美声に、何もかもが。自身より美しく思えた。第一印象は当てにならない。そう勘繰ることをせず、ベッキーは身体を起こそうとした。

 痛いっ! 動かした部位あたりが一面ヒリヒリする。見やると包帯がまかれていた。あれ? 思い、顔と頭部を触ってみる。やはり包帯だ。もしかして全身にまかれているのかしら? 不安は的中した。

「全身やけどを負っているのよ。でも大丈夫。命に別状はないわ」

 あ、あなたの、おなまえは、なに……? 

 最初からそうであったかのように、ベッキーは言葉を発した。そのことに関して自身が気付くことはなかった。わたしは日本人で日本語を話す。ただそれだけの話だ。何にも珍しくはない。意識するほうがどうかしているだろう。無意識だからこそ発せる。

「わたし? わたしは菊川怜。養護施設で先生をしているわ」

 養護施設? ああ、もしかして運玉森の近くにある児童養護施設のことかしら? 考える。脳は煮えてしまってダメになったわけではないらしい。こうして思考を巡らせることが容易だ。そのことに関しても考えることがなかった。

「どうして養護施設の先生が? って思ってる?」

 は、はい……。力なく返すと怜先生は少しだけはにかんで笑顔を作って見せた。それから真顔に戻り、今度は悲しそうな表情を浮かべる。この違和感はなんなのだろう? ベッキーは困惑するけれども、聞くまで理由がわからない。

「あなたは自分のことについて何か心当たりはないかしら? まあ、それについては後ほどカウンセリングで訊くことなのだけれど……。まあ、いいわ。今日はゆっくりしてなさい。何にも考える必要はないのよ。とりあえず、あなたはこんご、わたしの荘で面倒みることになっているから。だから安心してね」

 わたしには身寄りがいないってことですか? 訊こうとしてやめた。それらについて今後、話し合うということだろう。もちろん、胎児についても、だ。恐らくは流れたのでしょうね? あれだけ失血していたのだから。でも、奇跡はあるかもしれないわ。もしかしたらおなかの赤ちゃんは無事なのかも?

「あ、あの、あ、ありがとう、ございます……

 今の素直な気持ちだ。とにかく助かった。生きながらえた。それに対してどれだけ悦びが強いのか、今は実感として胸いっぱいに感じる。嗚呼、いきることってすばらしいのね。そんなことを口ずさみ、タップして踊りたいほどだ。そうでもない。

 だからといって現実はこうして叩きつけるようにして次の試練を与えている。ベッキーはとっさに表情を固めて真顔になった。

 カウンセラーとの対面はそれほど喜ばしいものではない。何でも知ろうとするその洞察力にイライラが募るばかりで遺憾に思う節もあった。

 だってわたしはご主人様とのことしか覚えてないんですもの。家族のことはそれだけ。これ以上しつこく訊かれても答えることができないのよ。それがどれだけ腹立たしいか、あなた方カウンセラーにはわからないでしょうね! まったく、本当に腹立たしいわ。失礼しちゃう。

 発音は相変わらずどもり気味だ。うまいことしゃべれずイラつくものだからどうしようもない。おそらくは断末魔を見すぎて脳に後遺症を被ったのだろう。それに関して考えずともわかることだ。ただ、それらを話したところで、このカウンセラーとやらは信じてくれるのだろうか? 話がややこしくなるだけで信じてもらえないのではないだろうか? とどめに精神病院へ叩き込まれるのではないか? そんな不安がよぎる。だから話さないことにした。カウンセラーへは何も思い出せないと、その一点張りでやり過ごしている。勿論、ほんとうにご主人様の世界からこの世界へ来たことまでの記憶しかないわけだが。

 全身の包帯が解けるまで、実に六か月を必要とした。妊娠三か月ころから悪阻などの異変は起こっていたが、医師に発見されたのはちょうどこの時期だった。おなかのふくらみで検査を受けさせられたのだ。

「妊娠六か月です――

 怜先生はまいにち見舞いに来てくれていた。日曜日なんかは息子を連れてくることもあったけれども、どうやらその子は養子のような気がした。何となく女の直感というやつだ。お母さんお母さんと話すのだけれども、ときどき怜先生と発するこの少年は、少年探偵団のリーダーだという。つまりは施設の子だということなのだろうか? 詳しくは聞いていない。

――それで、産むことにしたのね?」

 優しくて柔らかみのある美声は当初から好印象だ。ベッキーは思う。こんなにきれいな声だったらどんなに良かっただろうと。だってわたしったら、断末魔のなかで叫びくるってしまって、声帯をやられてしまったんですもの。いまではすっかりかすれた声になっている。一生懸命にきれいな声を出そうとしたところで無理なのだわ。こればかりは仕方ないものね。

「ところで、しずかちゃん」

 いま、ベッキーは新しい名前がついている。いわゆるあだ名なのだが、当初、動揺して物静かだったことから、そう呼ばれるようになった。本当のところは自身の名前を覚えているのだが、身寄りのないほうが、生まれてくる赤ちゃんにとって、自分にとって、好都合だと計算したうえで誰にも教えていない。

「おなかの赤ちゃんは男の子だった? 女の子だった?」

 そら来たかと思った。

 なるほど、今日はそれを知りたいのね? うふふ どうしようかしら? 教えてあげてもよいけれど、少しだけもったいぶりたい気持ちもあるし。でもでも、怜先生はよい人だから、だから教えちゃおっかな?

「おとこのこでした……

「そう……

 口ごもりはだいぶ良くなっている。これもそれも毎日のように怜先生と会話を楽しんでいるおかげだ。本当に感謝している。このひとになら一人息子を託せるわね。そう思った。相変わらず性格のほうは物静かで通っている。看護師どころか担当医ともあまり話をしない。心を許しているのは怜先生だけだ。

 ベッキーはいまだに鏡を見るのが怖い。用足しの時には仕方なしに手洗いの鏡を黙視するけれども、映されるその自身は別の人間だと決めつけた。写真撮影などはもってのほか。ただし、カルテ上の撮影だけは協力するしかない。素っ裸の状態ですべてを撮影されるとき、彼女は殺気みたいなものを覚える始末。悔しくて悔しくてしょうがないのだ。それは、ベッキーが女として自身を意識しているということ。羞恥心とは理性。まだ女を捨ててはいない。だがしかし、それがのちに致命的といえた。

 運玉ギルーについて話をしだしたのは出産間近の時。ベッキーは怜先生だけには話しておかなければならないだろうと、息子を託す人として知らさなければならないだろうと、思い切って打ち明ける決意をした。但し、口ではうまく伝えきれるかわからない。感極まって泣き出してしまうからだ。考えた挙句の判断。手紙を書こう。怜先生宛と息子宛に二通、書こう……

 拝啓

 

 菊川怜先生、突然こんな手紙をいただいてもよい迷惑だと思います。それを承知の上でこうして筆を握りました。わたしはあまり手紙を書くということが苦手で、文章の未熟さを否めませんが、それについてあらかじめご了承ください。

 わたしの愛する息子が生まれてから翌日に、わたしはこの手紙をサイドテーブルに置くことにしていますが、怜先生ならすぐに気が付いて、そして読んでくれましたよね?

 私の記憶喪失について、ほんとうならば口で言葉にして話したらよかったのだけど、でも、感情が極まってうまく言葉を探せないような気がして、手紙ならうまく話せるかなと思ったのです。こころが落ち着いているときというのは中々なかったけれど、毎日悲しみと不安で上下に激しかったのだけど、けれど不思議なもので、今回、出産日が迫る中でひと時の安らぎみたいなのがあったのです。

 わたしの名前は「静香ちゃん」と呼ばれていますが、本当のところは「ベッキー」といいます。名前からしておそらくはハーフか何かなのでしょうね。そこまでは思い出せないのだけれど、でも、そんな気がします。

 ベッキーと判っただけでわたしの親元を探すのはやめてください。それだけは絶対にやめてほしいのです。全身やけどを負った遺体の姿で両親に会いたくはないから……。それに息子のこともあるし迷惑でしょう? 迷惑といえばこの子を施設に預けるということと、苗字についての手間などを考えれば、余計に皆さんへご迷惑かけてしまうかもしれない。でも、わたしは無かったことにしたいのです。わたしの存在を、わたしの生きた証を

 それはつまり息子もなかったことにするのか? という矛盾点にまで及ぶでしょう。違うんです。わたしが言いたいのは、「お前のお母さんは全身やけどで自殺した」という事実を隠蔽してほしいということだけ。息子へは病気で亡くなったと、そう伝えてほしいです。それから息子の名前は「鐘」と書いて「ショウ」君にしてください。わたしとギルー様の一文字ずつ取った名前です。ベッキーの「ベ」とギルーの「ル」で「ベル」。それで「鐘」です。

 わたしの未知の体験についても話さなければなりませんね。怜先生はタイムスリップだとか本当に存在すると思いますか? とても信じられないと思うけれど、わたしはそれをしたのちに現実社会のここへ戻ってきたのです。それが嘘のような話で息子の名前で察しがついていると思いますが、ショウの父親は、盗賊で伝説のあの運玉ギルーなんです。うふふ とても信じられないでしょうね。でも、それが真実としてあります。

 怜先生? わたしと出会ってよかったですか? 悪かったですか? 迷惑千万でしたか? それを聞かないままにあの世へ旅立つわたしをどうかお許しください。本当にこんな醜い姿のまま、今後、息子を育ててゆくことにどうしても自信が持てないのです。学校行事やその他いろいろあるでしょう? 施設へ入所して、怜先生が面倒見てくれたほうが百万倍もこの子は幸せになれると思ったのです。やはり迷惑な話でしたね。本当にごめんなさい。

 わたしの遺灰は施設の森へ埋めてほしいです。できることなら隣接する運玉森へ撒いてください。灰の一部は、わたしが病室で作った子袋へ入れてもらって、ショウのお守りとして持たしてやってください。それからもう一通の手紙はショウ君へ。彼が二十歳の成人式を迎えたときに開くようくぎを刺しておいてください。もしくはそれまで怜先生が預かっておいてください。よろしくおねがいします。

 本当にさよなら、怜先生。ショウ君。ひと時でも安らげたことは、わたしにとって宝物です。ほんとうにありがとう。ありがとう。それから最後の最後にもう一回だけ。さようなら、せんせい、しょうくん。

かしこ

 某月某日

 実に爽やかな風だ。秋の彼岸を終えるころか、旧盆を迎えるあたりから、決まってこの東風はわたしの部屋へ入り込む。深夜帯のいまごろは、与那原の浜辺から波しぶき音が、ザザー、ザザー、と音色のように届く。

 あれから三年経つけれど、いまだ鮮明に色濃いのは、彼がこの養護施設で元気いっぱい毎日を過ごしているから他ならない。苗字はどうしようかと悩んだけれども、「菊川」の姓で本当に良かったのかな?

 彼女の死にざまはあまりにもひどかった。だって、産婦人科院の屋上からの飛び降りですものね。彼女はどんな思いで最期を迎えたのだろうか? 最初のころは考えられなかったけれど、怒りもしたし、本当に哀しくて。けれども、彼女が選択したことですものね、今なら冷静にそう思うことができる。

 彼は三歳になり、ようやくまともに歩けるようになったけれど、それでもまだ少年探偵団の一員は早いんじゃないかって隊長に聞いてみた。隊長の彼はやるなら早いほうがいいんだよ、お母さん。っていうけれど、ショウ君にとって、それは少しだけ試練みたいなものなのかなと思う始末で。

「れいせんせい、きょうね、びーだまあそびしたんだ

 彼は楽しそうにそう言ってきた日のことをよく覚えている。どろんこだらけで、たぶん、ビー玉遊びの穴を掘ったのでしょうね。言わずとも知れたこと。皆、そうして大きくなってゆく。

 ――ショウ君、この世界では逞しくなくちゃダメなのよ。

 いつしか言ったことば、彼は覚えているかな?

「あなたたち! 性懲りもなく、また、運玉森で秘密基地造ってるのね――?」

 でも強くは叱れない自分があって。だってみんなかわいいんですもの。そしてまた、なんといっても可哀そうなのよ。それを思うたびに涙がこぼれそうになる。いつしかショウ君が運玉ギルーについて訊いてくるのでしょうね。怪盗、運玉ギルーの話を聞かせてと、さもや昔話の童話でも聞きたがるように。それが本当だとしたら、たとえば彼が二十歳になったときに手渡すつもりの手紙に記されていたのならば、どんなリアクションをするのだろう? 楽しみのような、怖いような気もする。

 翌日の昼下がり、ショウはビー玉会場にそびえる大きなガジュマルの下にいた。このガジュマルには錆びた五寸釘が打たれている。キジムナーがいたずらできないようにするためだ。そういう習わしが昔からある。

 怜先生は当直を終えて帰宅していた。代わりとして見守っているのは背丈の小さい園長先生である。古びたグレーのジャケットに赤茶色のズボン。細い首からは紐ネクタイをぶら下げていた。黒ぶちのメガネは、ポマードによって整えられた頭髪によくマッチングしており凛々しく見える。

「ショウ君、この木に登りたいのかな?」

「うん! だって、みんなのぼっているんだもん!」

 それじゃあ、もう少し大きくなってから幾らでも登るといい。慌てることはないですよ。

 やだっ! おいらはいますぐにのぼりたいんだいっ! 

 おやおや、こまったこですねぇ。それじゃあこうしましょう。私のオフィスでお菓子でもいかがかな? 甘い甘いケーキがありますよぅ

「きのぼりやめたっ! えんちょうせんせいのところへいくもん!」

 よしよし、よいこですねぇ。それでは皆さんにあいさつしてからゆきましょうか。ほうれ、皆さんにバイバイするのですよぅ できますね? 

 うん! みんな! これからえんちょうせんせいのところへいくから、ばいばいっ! またあしたねっ!

「なんでぇ! 弱虫な奴だなぁ! 園長せんせい! 俺たちにもお菓子ちょうだい!」

「あっかんべー!」

 やい! ショウ! おまえ俺らに向かってあっかんべーしたなぁ? 後でゴリゴリの刑だぞ! こうしてそうしてごりごりごりごりしてやっからなぁ! おぼえてろよ!

「ショウ君、少し耳を貸しなさい。いいですか? こう言ってやりなさい……

 うんっ――! 

 ショウのやつ、な、なんだよう? 偉そうに大の字なりやがって……

「みんなきけぇ! わんねー、わんねー、うんたまぎるーやいびんどー!」

 ふ、ふんぎゃあ――! 

 そう発する皆は次に爆笑して一か所へ集う。

 それからショウ君を肩車し、園長先生のオフィスへ共に向かった。

 

おわり

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