愛するということ 4
知子は十一歳になった頃、ガマの話しや霊的現象を恵に内緒で密かに聞かされていた。そして万一、日本兵を見た場合は絶対に目を合わしてはいけないと言う事を注意されていた。この類の怨霊と話をした場合、普通の人間ならば即座に魂を抜き取られ呪が移る。但し、怨霊などという何か特殊で異様な物体は十二歳以上の人間でないと興味を示さないらしい。知子はこのとき既に思春期を迎えていた。十四歳。
沖縄戦没者の霊は結界を越えて日増しに現れるようになった。どうやら弟子達の知らぬ箇所で結界が破られているようだ。妖精の数も大分減ってきた。長の倫子ですら特に最近多忙でこの事には今日まで気付いていない。正に、第二の結界内に居る恵以外の人間全てが危険にさらされている状況。しかし、知子は倫子に話さないで居た。二重に包囲してある結界の話まではまだ聞かされていなかったのである。つまり、結界の存在までは全く知らなかったのだ。
知子は無視を続ければ何時かは居なくなるだろうと勝手に決め付けていた。だから周囲に相談するのではなく、一刻も早く“さ迷う日本兵”における“出来事”を、忘れる事に専念した。しかし駄目。あの瞬間から男は、誰も周囲に居ない時間だけだが、知子に完全に纏わりついた。何故かは分からないが、どうしても彼は彼女に存在を気付いて欲しいようだ。
そして沈黙は、結界が破壊され始めてから三日目の今夜、遂に破られた。
美子、美子……。
知子の寝室にうねる様な声がしつこく響いている。
霊が纏わりついてからというもの、妹を自分の部屋で寝るよう話していた為、恵はこの部屋には居なかった。知子は上向きで寝た状態のまま強烈な金縛り状態にあった。
窓外に見える夜空は快晴だと言うのに、不自然にもこの奇妙な現象の時だけは、しごく室内の湿度が高かった。シーツの上に敷いたタオルケットが、雨が降ったかのようにびしょびしょに濡れているのを肌で感じ取れた。
彼女は精神的に我慢の限界。これで今夜も含み、三日三晩まともに寝れていない。いや、一睡たりとも寝かしてはもらえなかった。
知子はとうとう我慢できず、決着をつける決意をした。
「貴方、誰なの?」
上を向いたまま恐々と言った。彼はベッドの直隣に立っている。
「俺だよ……。誠だよ……」
不思議な事にこの唸るような声は彼の立つ方向からではなく、知子の頭上かつこだま含みに響きながら聞こえた。
「美子……。美子……。お前、無事に生きていたのか?」
どうやら知子の事を、彼の知る別の女性と錯覚しているらしい。
「どうしてこんな所に居る? ここは敵が多くて危険だ。早く東京の実家に戻れ」
少し間をおいてから続けざまに男は言った。彼は妹と誤解している様だ。男は終戦に気付いていない。沖縄戦で没し魂となった時間から一時たりとも時代が経過していない。やはり母が言うように何十年経った平和なこの世界でも戦争は未だに終結しては居なかった。
「私、その人じゃありません。もう付き纏わないで下さい」
「何を言ってるんだ! お兄ちゃんを忘れたのか?」
怨霊の不思議な力が弱まったせいか、男の声はその口元があるであろう方向から正しくはっきり聞こえてきた。知子の金縛りが完全に解かれた。
彼女はそのまま仰向けの状態から声のする方向へ顔を向けた。しかし次の瞬間、再び強烈な金縛りが襲い掛かってきた。もはや目を逸らす事は出来ない。知子は正にこの時から万事休した。
何やら身体の全体から蒼い炎のようなガスを放出している彼の目は、とても悲しい出来事を芯から伺わせていた。
知子が彼の眼差しを五秒ほど見つめた。その時、これまで彼の体験した沖縄戦における全ての出来事が、あたかも自分の記憶の如く、彼女の脳を鮮明に色濃く駆け巡った。
凄まじい念から波動が発生している。知子はフラッシュバックに似た現象の世界へと追いやられ、そしてとうとう記憶の中の人物に化そうとしていた。一瞬、ストロボの様な大きな光が部屋中に放たれた。何処からともなく突然放たれた光と共に、知子はまるで電脳が映し出した様な記憶の世界で彼の妹に化した。
二人は今、地下鉄のホームに向かい合って立っている。彼女は目の前に立つ兄の顔を涙目にじっと見つめていた。兄はとても優しくて明るい笑顔を見せていた。
「お母さんの事、頼んだぞ」
「お兄ちゃん……」
千人針を渡したあのホームで、美子と誠はとても悲しく辛い別れを体験した。
彼は自ら命を絶つために南の島へ今日旅立つ。万歳三唱があちらこちらで大きく響きながらコチラまで聞こえていた。
兄は最後まで涙を見せなかった。列車の四角い窓から満面の笑顔を覗かせて、彼女の目に入る最後の最後まで帽子を握り締めた手を思いっきり振っていた。しかし本当は妹の見えなくなった列車の中で我慢する事無く激しく号泣した。そして思いを込めて念じた。
美子……。お兄ちゃん、お前とお国の為に立派に死んで来るからな。
知子は現在の世界へ戻った。彼を見つめたまま止まった目からは大粒の涙が溢れ、流れて行った。
「一緒に帰ろう」
彼は最後にそう一言放ち、優しい眼差しで手を伸ばした。彼女の魂は完全に彼の記憶の中へ抜け出ていた。今、知子は、彼が没した場面を見終え、そして彼と彼女以外には何も無い真っ白の世界に居る。
「知子! 知子――!」
何処からとも無く母の声が聞こえてきた。しかし、今の彼女は美子であり、知子ではなかった。
「だれだろう?」
彼女は一旦足を止めた後、声のする方向を振り向いた。が、しかし、再び彼女は戦没者と手を繋ぎながら終着のない白い世界を何処までも歩いていった。
翌日の朝、知子の抜け殻は倫子の弟子たちによって除霊所へ運ばれていた。第一の発見者は家政婦。倫子は家から大分離れた地区へ訪問除霊に行っていた為、除霊を終えた後その依頼者の計らいで宿泊していた。彼女が知らせを受けたのはその訪問宅にて朝食をご馳走になっている時。
「――あ、はい、お世話になってます。はい、先生ですか? はい、あっ、ちょっと待って下さい。今、代わりますので」
家主の妻は受話器を置くと倫子の方へ伝えに行った。
「先生、ご自宅の方から電話が来てますよ」
その電話で事細かく状況を知らされた。弟子達は倫子のスケジュールを予め知っていた為、連絡をこうやって取り付けることが出来た。それだけが幸い。
「うむ、分かった。うん、うん――」
ここから自分の拠点までは距離があるため、戻るには少し時間が掛かる。やむなく倫子は今だに未熟とも言える二番弟子に「応急処置を施した後、自分が戻るまでの間、除霊所の一室に監禁して置く様に」と指示した。そして受話器を置いた後、こんな時に限って一番弟子を連れて来た事に対して思いきり悔やんだ。
「先生、どうしました?」
一番弟子の由美子が訊いた。
「知子が、知子がちょっとな」
「まさか!」
やり取りで大まかに察していた由美子が絶句した。
「うん、とにかく急がねば」
「ああ、それならタクシーを呼びましょう」
隣で聞いていた家主もただならぬ事態を察してか、そう発した。
「すみません、コチラまでご迷惑かけてしまって」
「いえいえ、良いんですよ。気になさらないで下さい。おい、裕子。丸善タクシーに電話してくれ」
倫子と一番弟子を乗せたタクシーが拠点に着いたのは昼前の十一時を過ぎた辺り。何時ものように第二の結界外となる正門前にて二人は下車した。
倫子と一番弟子は帰宅途中の乗り物の中で運転手に悟られぬよう専門用語等を駆使し今回の件について話し合っていた。そして二人共に合致した答えは、やはり“第一の結界の何処かが破られている”と言う事。
「ありがとうございました」
後部座席の左に座っていた一番弟子が下り、続いて倫子が下車する際に、運転手がそう発した。その後、運転手は倫子がドアから離れるのをじっと見つめていたが、倫子は下車し立ち上がろうとした体制から動こうとしない。どうやら門扉の間から見える敷地内を彼女は睨んでいる。
遅かったか……。
「お客さん。大丈夫ですか?」
運転手が彼女を我に戻す様に言った。
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