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愛するということ 48

   正樹は正治先生が指さす方向を見た。確かに窓際となる一番奥の席が一つ空いている。ふと、これからパートナーとなる隣の席の女の子が彼の目の焦点に入った。瞬間。正樹の見る視線が硬直を成して驚愕した。   何と言うことだろうか。紛れもなく確認をした其処には一つ年下ではなく同級生の恵の姿があった。   恵 !     正樹は思わず口に出しそうになった。が、もう一つの自分がそれを拒んだ。この世界に居る正樹自身は初対面だからだ。当然、恵の事など知るはずもない。しかし 、 愛おしい感情は同じだった。この世界の正樹も一目惚れしていた。   正樹は席に着いた。すると、とても懐かしい美声が彼の耳に聞こえた。 「あの、はじめまして」   恵は正樹の顔の様子を見てから続けた。 「あっ !  あたしの名前は上村恵。よろしくね」 「あ、うん、よろしく …… 」  もう一人の正樹が恥ずかしそうに返した。 「ねえ、正樹君だっけ ? 」 「うん」 「正樹君って何処に住んでるの ?  教えて」 「あ、俺の住んでる所は、山根総合病院の近くにある分譲住宅地なんだけど ―― 」  この世界の正樹の記憶から彼はそう答えた。途端。 「ああ !  知ってる。あたしの家も其処の近くだよ」   恵は言った。それから彼女は、正樹の耳元へ近づき小声で続けた。 「正樹君、良かったら今日一緒に帰らない ?  学校までの近道教えてあげる」 「ああ、ありがとう。でも今日は迎えが来るから」 「ええ、嘘 ?  ほんとに ? 」  言って、恵はがっかりとした表情を見せた。それを察した正樹は、何だかとてもたまらない気持ちになった。 「いや、でも歩いて帰った方が道も覚えやすいし、その方が良いな。帰り、学校の待ち合わせ場所で弟か兄貴にそう話しておけば大丈夫か」  正樹は撤回するように独り言を呟いた。それから彼は恵に向かって続けた。 「やっぱり一緒に帰ろう。よろしく」  それが二つある正樹の素直な気持ち。 「良かった。断られたらどうしようかと思った。嬉しい」  恵が頬を赤らめた。それを見て正樹は再び彼女を愛おしく思えた。   実は恵も一目惚れ。二人はこの世界でもお互いを出会った最初から特別に感じていた。それが運命。  朝の会が終わった。同時に一人の男子生徒が恵の所へと来た。智彦。   正樹は流石に驚きの表情を隠しきれなかった。智彦がそれに対

愛するということ 41

 


 二人は何か会話をしている。

 女性が正樹の胸元にそっと額を持たせて何かを言っているがよく聞えない。

 恵は密かに耳を立てた。

 女性が男の胸元から離れた後に発した声がはっきりとこちらまで届いた――

「今日はわがままばっかり言ってごめんなさい。それじゃあ、おやすみなさい。正樹さん」

 恵は思わず口を手で隠した。男はやはり正樹。

 女性は顔を上げた。正樹と女性は温もりを感じるキスを交わした。

 其処はまるで二人だけの世界だった。恵は気が動転した。少ししてからだ。

「おやすみ」

 正樹がそう発したのがかすかに聞えた。彼は寮の中へと入り、女性は駐車場へと消えた。恵の視界が少しだけ朦朧とした。辺りがぼんやりとかすんで見える。恵は小さく呟いた。

「どうして、どうしてなの

 それは恵にとってあまりにも残酷。

 恵は手を口に当てたまま屈みこんだ。彼女は、時は常に動いているという事を忘れていた。いや、見ない様にしていただけかも知れない。今、恵の目に入った正樹は、新しい運命を手に入れている。少なくとも彼女はそう思った。

 施設で最後に正樹と会ったあの時、確かに別れを口にしたのは自分だ。だから正樹がとやかく言われる筋合いは無い。それなのに、何時までも自分の事を正樹が思っている訳が、そんな事があるはずがないではないか。

 ――嗚呼、自分はなんて勝手なんだろう。

 恵は自分自身に涙目で叱責した。しかし、誰も恵を責められない。彼女は正樹の事を本当に運命と心から信じていた。また、母にもそう言われていた。

 別れた後、正樹は施設に会いに来ていた。それはきっと恵が願っていた事を彼は言いに来たに違いなかった。恵は遅れすぎてしまった自分に対して、ただ悔しくて悔しくてとてもやりきれない気持ちになった。

「正樹、正樹……

 とうとう恵は、その場で泣き崩れてしまった。

 

 後日から恵は正樹の事を忘れようと仕事だけに打ち込んだ。それは毎日、心が晴れたようにすっきりとした気持ち。そうではなかった。

 仕事から帰ると、突然襲い掛かるように正樹が脳裏に浮かんでは彼女を攻撃した。恵はたまらず一人しくしくと寂しく泣く。それはもう何日も終わる事無く続いた。

 そう言えば恵は最近、霊的なものや奇妙な世界を見ていない。それに関して彼女は正樹との事が完全に終わったからだと決め付けた。運命は時と共に変わり、世界は色を変えた。只それだけだと考えた。勿論、恵はまだ心の片隅では完全に納得したわけではなかった。

 仕事は恵が望むとおり更に多忙を極めた。もはや山本レナを知らない人間はごくわずかだろう。彼女は日夜問わず良く働きそして寝る前に泣いた。それは決められた工程のようにずっと続いた。

 やがて一年後、恵は過労と治る事の無い精神的な病によって、都内のロケ現場で遂に倒れた。そのロケ現場は、たまたま都立病院に隣接する公園だった為、スタッフは何も迷う事無く恵をその病院へと直ちに運んだ。彼女は緊急入院しなければならないほど様態はとても悪かった。

 入院してから二三日ほどで疲労だけは回復した。しかし、念のために恵は一週間入院する羽目になった。病室には付添い人として山本レナの女性マネージャーが居る。恵は今や有名な芸能人で、個室であるこの特別病室からはどうしても出られない。そこで、何か買い物などあれば彼女がかわりに行った。

「三崎さん、すみませんけどお茶買ってきてくれませんか

 喉が渇いたが、お茶を切らしてしまっている恵が言った。雑誌を読んでいたマネージャーが恵の声に反応した。

「あ、はい。ついでに何か良い雑誌とかもあれば、幾つか買ってきましょうか

「お願いします。いつもすみません」

「いえいえ、これもマネージャーの仕事ですから。それじゃ行ってきますね」

 マネージャーが病院内にある売店へと出かけた直後、恵はベッドから起きて第三者が入って来ないようドアの鍵を閉めてから、退屈しのぎに窓の外に見える無機質で空気の悪そうな景色を眺めた。

 目覚めの良かった朝だというのに、十時を迎えようとしている上空には多忙なる灰色のガスが霧のように立ち込めていて、それを吐き出している地上一帯は建物がとても窮屈に犇めき合っている。恵はそれを見ただけで瞬時に吐き気を覚えた。この大都会で疲労に倒れた恵の体は、この決して美しいとは言えない光景に素直に反応してしまったようだった。

 悪い酔いをごまかすように、恵はずっと遠くに目をやった。そして憂鬱に、いつまで自分はこんな世界に居るのだろうか と脱力感に似た感情で恵は思った。

 恵の口から溜息がこぼれた。と同時に、これまで仕事でごまかしていた切なさがどっと押し寄せてきた。

 ――嗚呼、こんなはずではなかったのに。

 恵は思わず恋しい声で「正樹……」と小さく呟いてしまった。

 少しして、恵はふと窓ガラスに映った影を見た。男性の姿がうっすらと窓ガラスに反射している事に彼女は気付いた。恵は瞬間的な緊張と共にハッとして入口の方へと思い切りに振り返った。

 ――

 恵は硬直し驚いた顔をした。目の前には見るからに年上だと分かる男が立っている。男はただ優しそうに微笑むだけで何も言葉を発してこない。

 恵は一瞬考えた。

 確かにマネージャーが病室を出た後、人が入ってくる物音などは一切聞えなかった。もしかして自分のファンか誰かが隙を見て静かに入ってきたのか いや、違う。そうならない為に、先ほど自分が横開きのドアの鍵を閉めたではないか。それじゃ、この人は一体――恵は少し混乱した。

「あなたは、あなたは誰なの

 恵は表情を更に固くして訊いた。

「智彦だよ。向こうの世界のね」

 男は微笑んだ顔で言った。

「え

 恵は思わず目を見開いておどろいた。確かに言われてみれば、智彦の面影がなんとなく見え隠れしている。しかし、当然恵は今すぐに信じることなど出来なかった。

「驚いた

「本当に、貴方は本当に智彦なの

「ああ、そうだよ」

 男は先ほどと同じく笑顔のままそう言った。

「嘘よ 智彦はずっと昔に死んだわ え ちょっと待って、違う。向こうの世界  もしかして、貴方はもう一つの世界から来た智彦だって言うの

 恵は気が動転しながらも思考を巡らせそう訊いた。男は恵を納得させようと言葉を返した。

「此処の僕は裕美と言う女性と付き合ってた。そして君と正樹がまだ付き合う前、君は僕に正樹のことについて訊いて来た。勿論、誰にも内緒でね。これで信じてもらえるかな

 咄嗟に恵は昔の事を思い出した。

 実は恵と智彦は、正樹と恵が付き合う以前から仲が良かった。

 正樹に初めて声をかける前日、恵は正樹の一番の親友である智彦に、正樹のことについて密かに訊いていた。そのとき、恵は正樹の事が恋愛感情的に気になると誰にも内緒で話していた。恵も一目惚れだったのだ。智彦は、それは正樹も同じ気持ちだろうと恵に返していた。恵はこの出来事を誰にも話していない。それは智彦も同じだろう。つまり、この事は智彦と恵しか知らないのだ。恵はここで驚愕した。

「驚くのも無理は無いよ。実際、僕も正直驚いている。なぜ此処の世界に来たのかってね。でも、その理由が今分かった」

 智彦はそう発してから、少し俯きクスクスと少しだけ笑った。

「でもおかしいよ」

「え 何が

「いや、ここでの正樹も奥手だなと思ってね。本当に、あいつは何処でも変わらない。あいつが先に告白していれば……。いや、その話はやめておいた方が良いな。此処の君に話したところで運命が変わるわけじゃない」

 智彦は笑いながら話すのを止めて病室の白い天井をふと見上げた。恵は彼が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。ただ考えられる事は、彼はもう一つの世界の過去の事を話そうとした。それだけだった。智彦はゆっくりと間をあけてから続けた。

「まあ、向こうの世界での話しなんだけど、君と婚約したその夜に僕は交通事故に遭ってね。それからいつの間にか変な所をさまよってたら、突然色々なものを見た。此処の世界のね。そして最後に来たのが此処だった」

「え あなたと私が婚約 どう言う事なの

「そういう事だよ。とにかく、今はこれ以上向こうの話をしている余裕はない」

 智彦がとても真剣な表情に変わって言った。彼は再び間を置くように一呼吸してから発した。

「君は今すぐ正樹に会いに行くべきだ」

「え

 恵は突然のその言葉に拒絶を覚えた。彼女は本心とは違う言葉を咄嗟に返した。

「嫌よ 私、もう彼には会いたくない……。正樹は、正樹は私のことなんかとっくの昔に忘れたのよ。もう終わってしまったの……

 恵は横を向いて俯いた。智彦が彼女の右肩にそっと手を置いた。

「違う。それは違うよ」

「違ってなんかいないわ。私はこの目で見たの。正樹と女の人が……

 智彦はすぐに説得した。

「でもその後、正樹に君は会って話をしてないだろ 君はただ誤解をして正樹に会わずに帰った。正樹とその女性は、結ばれた様でそうじゃなかったんだ。それにもう二人は別れたんだよ」

「別れた だから何 私はもう彼を許さない。そう決めたの。今更遅いわ」

 恵は智彦を少し睨むようにしてから言った。

「本当は違うだろ 君は今でもあいつの事が好きなはずだ」

 恵は何も言えなくなった。

「昔も今も、正樹にとって必要なのはお前なんだよ お願いだ。最後に一度だけでも良い。正樹の元に行ってあげてくれないか

 恵は力なくまた俯いた。智彦が彼女の両肩に手をまわした。そして言った。

「正樹は今、この病院の三階にある集中治療室に居る」

「え

 恵は思わず顔を上げて智彦を見た。

「あいつを此処に導いて、そして開放しくれ」

「導く 私が

「そうだよ。それは君にしか出来ない。大丈夫、全ては報われるはずだ」

 突然、恵の脳裏に姉の知子が最後に言ったあの場面が映し出された。それはまるで、恵の中にいる知子が見せたようにとても鮮明。

 生きて、そしてね、幸せになるの。これから本当に死ぬほど辛い事があっても、そこに隠された答えの意味が分かるまで――。大丈夫、全ては報われるわ。

 恵は急に悲しくなり涙を浮かべた。彼女は、もう終わりがすぐ其処まで来ている様な気がした。恵の唇は震えだした。

「もう時間だ。人が戻ってくる」

 智彦は恵の肩から手を離した。恵は瞬時に智彦がこの場から消える事を察した。

「待って

 咄嗟に恵は智彦を呼び止めた。恵は涙目に震えた声で訊いた。

「正樹は、正樹は死んじゃうの

「会いに行けば分かる」

 智彦はそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。途端、恵の見る目の前で彼の全身から光が出始めた。光は徐々に強くなり、しまいには周りの影がどんどんと消えていく――

 一瞬、これ以上無いストロボの様な明るい光が放たれた。と同時に、大きな光はあっという間に残像だけを残して恵の目の前から姿を消してしまった。

 恵がその光から通常に目を戻した頃には、智彦の姿はもうこの場から忽然と消えていた。

 そう言えば昔、奇妙な時間の中で母に会った時も、同じ様に大きな光が最後に放たれた。恐らく今起きたこの現象も、それと全く同じだろうと恵は唖然としながらも思った。

 恵はほんのわずかだが目眩がした。その直後だった。マネージャーがドアをノックした。彼女はふらつきながらも鍵をあけた。

「どうしたんですか なんか声が聞こえましたけど」

「私、行かなきゃ」

 恵はそう呟いてマネージャーとすれ違った。

 彼女は急に走りだした。今、恵は一つの事しか頭にはなかった。

「ちょ、ちょっと、レナさん

 マネージャーの声など恵の耳には届かなかった。

 恵は病室から飛び出し走った。周囲に気を配る事無く走った。今すぐ正樹の元へと彼女はただ思い切りに走った。遂に恵は辿り着いた。そして無理やりに近親者だと偽ってでも集中治療室の中へ入った。智彦の言うとおり、其処には確かに正樹が居た。しかし、悲しくもその日の夜、彼は死んだ。

 

愛すると言う事~第八章

 

 香織が完全居なくなってから、正樹は再び孤独な休日の繰り返しに戻っていた。

 彼女と別れてから最初の日曜。この日、正樹は一日中何もする気が起きなかった。は今、部屋の壁にもたれて座り込んでいる。

 正樹は向かい側の白壁の上辺を見た。石膏ボードの上にクロスが貼られたこの窮屈な部屋の白い壁には、香織から貰った少し可愛い掛け時計が下っている。彼女は二人の時間をこれから大切にしてほしいと、それを付き合って最初のころに贈った。

 正樹はその掛け時計をただ呆然と眺めては、香織の気持ちを踏み躙った自分に対して怒りとやるせなさを込上げた。恵の時と言い香織の時と言い、自分は何て勝手で愚かなのだろう。繰り返してしまった自分の浅ましさに、正樹は心底嫌気がさした。

 香織と別れてから一か月ほど経過した。しかし正樹の心は、まだ香織と別れたあの日から時がさほど経過していなかった。

 正樹は気晴らしに、職場の上司にあたる伊藤勝則からしつこいほどに「開放している」と話を聞いていた駅前のパチンコ店へと玉打ちに一人でふらふらと出かける事にした。

 だらだらと歩いては、やがて店へ辿り着。正樹は自動ドアの向こう側で待つ娯楽の世界へ躊躇する事無くスッと入った。

 途端、耳が痛くなるほどにホール内へ響くけたたましい音が、正樹の耳をこれでもかと攻撃した。が、しかし、それが彼に纏わりつく自己嫌悪な空気を一瞬で何処かへと吹き飛ばしてくれそうな気がして、今の正樹には何だかちょうど良かった。

 正樹は、台の隣に設置された機械で玉を購入してから、早速パチンコを打ち始めた。次々と発射されていく銀色で艶のある小さな球体の幾つかが、遂には入賞口へと流れ込んだ。中央に設置されたデジタル表示のドラムが、音楽と共に回転する。正樹はしばし時を忘れてそれを何回も繰り返した。

 夕方をとうに過ぎ、やがては夜を大分迎えた頃、正樹は勝則と店内でばったり出くわした。打ち続けて気が付けば閉店前。いつの間にか二人は台を並んで打っていた。


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